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国鉄改革と新生JRを見守った交通ペンクラブの30年(鈴木 隆敏)2013年7月

2012年10月、リニューアルオープンしたJR東京駅が日々賑わっている。国の重要文化財に指定され、1914年の創建時の姿に復元された赤レンガの丸の内駅舎は、太平洋戦争を挟んで戦前から戦後日本の復興の歩みを百年にわたって見守ってきた。


〝生きた重要文化財〟駅舎の再生を見届けるように、私たち交通ペンクラブ(以下ペンクラブ)は翌11月、新装なった東京ステーションホテルで「JR25周年と交通ペンクラブ30周年を祝う会」を開催、ひとまず活動の幕を閉じた。取材基地ではなかったが、種々の発信をし研さんと懇親を重ねながら〝新生JR〟の四半世紀を見守ってきたペンクラブの30年の軌跡を振り返る。


◆クラブ設立、会報の発行


ペンクラブは丸の内北口の旧国鉄本社ビル(現丸の内ОAZО)にあった「国鉄ときわクラブ」などを母体とし、運輸省記者クラブの「交通政策研究会」、東京航空記者会(羽田記者クラブ)のOBらを中心に、81年6月19日誕生した。「21世紀の日本の交通体系のビジョンを求め、これを交通行政に反映させるとともに、会員相互の親睦を図る」とその目的をうたっている。


設立総会は港区の青山メトロ会館で開かれ、会員41人、来賓36人が出席。初代代表幹事に「ときわクラブ」の大先輩で朝日新聞OBの牧田茂氏(02年没)が就任した。来賓には元運輸大臣・木村睦男、元国鉄総裁・磯崎叡、元日本交通公社副会長・兼松学の各氏らそうそうたる顔ぶれが並び、日本観光協会会長・荒木茂久二氏(元営団地下鉄総裁)が祝辞、国鉄副総裁・馬渡一真氏の音頭で乾杯をして和やかに〝出発進行〟した(いずれも故人)。


ご多分に漏れずメンバーは呑兵衛がそろっていたが、当時は国鉄の積年の赤字経営が行き詰まり「民営」「分割」などの改革が待ったなしの正念場だった。そこで「酒ばかり飲んでいるわけにはいかないぞ」と日本交通協会の協力で、毎月カレーライスとコーヒーの例会(講演会)や見学会などの勉強会を開催し、年数回の会報『交通ペン』を発行して多彩な発信を続けてきた。


創刊号は82年1月22日発行。牧田代表幹事が「今年もまた値上げだそうである(中略)これでは国民の国鉄離れが進むばかり」と、巻頭で運賃値上げに苦言を呈した。同5月15日付の第2号では会員で経済評論家の小暮光三氏(元産経新聞編集局長、05年没)が「民営・分割に3つの疑問」を投げかけ、輸送体系による機能分割や労使関係の正常化とスト権問題との絡みなどを指摘した。


◆改革派VS守旧派の権力闘争


第10号は84年6月14日付で、産経新聞OBの勢種彦・事務局長(07年没)が、ペンクラブの4年間の歩みを振り返りながら「国鉄再建を見守っていこう」と提言した。同9月28日付の第11号の国鉄新総裁インタビューでは、高木文雄氏(元大蔵事務次官、故人)から代わった仁杉巌氏が「期待に応えて頑張ります」と決意を語ったが、翌85年6月、総裁、副総裁以下役員の半数が辞任(更迭)した。


この間の1~2年は「カラスの鳴かぬ日はあっても、国鉄の悪口が新聞に載らない日はない」と言われ、国鉄の民営─分割─解体が改革の主流となっていった。詳細は歴史の暗部に埋もれている部分が少なくないが、せんじ詰めれば「改革派」VS「守旧派」(国体護持派)の権力闘争だった。


それも国鉄経営陣と再建監理委員会・運輸省、国鉄経営陣自身の内部、また国鉄と国労、国労と動労の労使・労労間などで、時には自民党や社会党の有力者も巻き込んで様々な対立や抗争が繰り広げられた。


これらのことはすでに草野厚氏(現慶應義塾大学名誉教授)『国鉄改革─政策決定ゲームの主役たち』(中公新書)や、改革3人組の葛西敬之氏(現JR東海会長)『未完の「国鉄改革」─巨大組織の崩壊と再生』(東洋経済新報社)、松田昌士氏(現JR東日本顧問)『なせばなる民営化JR東日本─自主自立の経営15年の軌跡』(生産性出版)などが、それぞれの立場で詳述しているので委ねる。


とまれ85年6月、国鉄は杉浦喬也総裁─橋元雅司副総裁(いずれも故人)以下の新体制となり〝改革3人組〟といわれた井手正敬氏(のちJR西日本会長)をはじめ松田、葛西3氏を中心とする改革派が主導権を握って宿願の国鉄改革にまい進した。同7月、国鉄再建監理委員会が「分割・民営化」の最終答申提出─翌86年1月、国鉄当局と動労、鉄労、全施労が「労使共同宣言」を締結。11月、国鉄分割・民営化8法案が成立して、87年4月のJR7社と国鉄清算事業団の発足により国鉄は解体された。


国鉄最後の日の3月31日からJRに移行した4月1日は、当時の全ての国鉄マンにとって忘れられない〝特別な日〟となった。東日本、西日本、東海、北海道、九州、四国の旅客鉄道会社6社と貨物鉄道会社に分割民営化され、大半の職員が清算事業団を含めた新しい職場で再スタートした。


しかし新生JR各社のその後の経営努力と発展ぶりは評価されていいだろう。国鉄時代の営業収入は関連事業を含めて年間ざっと2兆円だったが、毎年の垂れ流し赤字は1兆円超、累積債務が総額25兆円にも達する〝破産状態〟だった。それが今日ではJR7社の年間総売り上げは6兆円を超え、各社は税金を払いながら長期債務の返済を続け、それぞれの体力に応じ安定した好決算を続けている。


JRになって四半世紀、基本運賃の値上げを一度もしていないことは特筆に値する。


◆改革の道程を見守る


この間ペンクラブとしては会報の『交通ペン』を通じて、ある時は叱咤しまた激励し、改革の道程を見守り応援してきた。新生JRの歩みを折節の『交通ペン』などで振り返ると次のようである。


JR10周年は97年7月11日、池袋のホテルメトロポリタンで開催された。JR発足後、各社はそれぞれの経営方針や営業政策が微妙に異なり、トップを含めて意思の疎通は十分ではなかった。そこでペンクラブが呼びかけることによって、改革3人組とJR首脳が勢ぞろいし、参加者270人という大パーティーとなった。「祝 競争と協調の時代へ」のスローガンは各社への期待を込めたメッセージだった。


15周年は02年6月13日、改築前の東京駅・東京ステーションホテル。150人を超える参加者を前に、日本テレビ記者時代に国鉄を担当したことのある自民党、石原伸晃・行革担当相が、話題になっていた日本道路公団改革に触れ「JRのようにうまく進めばいい」と挨拶した。国鉄改革が政府の行財政改革の〝サクセスストーリー〟になっていたことを示している。


20周年はペンクラブの25周年を兼ねた祝賀会とし、07年7月27日飯田橋のホテルエドモンドで開かれ、JR7社トップと約150人が出席した。NHK経営委員会委員長を務めたこともある須田寛・JR東海相談役の音頭で乾杯し、さらなる協調と発展を誓い合った。


そして昨年11月7日夕「JR25周年と交通ペンクラブ30周年を祝う会」が開催された。参加者はJR各社のトップのほか旧国鉄関係者、ペンクラブ会員ら約120人。いずれも東京駅とステーションホテルに多くの思い出を持っている人たちで、口々に「懐かしいねえ」を連発していた。


20周年、30周年ともペンクラブの堤哲・事務局長(毎日新聞OB)の司会、曽我健・代表幹事(NHKOB)が挨拶、実行委員長を小生が務めた。JR東日本の冨田哲郎社長はじめ7社の首脳が近況報告と挨拶のあと、松田昌士氏が「JRと東京駅は見事に〝復元〟、再生しました」と改革の成果も高らかに乾杯した。曽我代表幹事の提案で中締めの際、30年の間に鬼籍に入られたペンクラブや国鉄、運輸業界など数十人の先輩を偲んで全員で黙とうをささげた。


最後に「長い間お世話になりました。JR各社と皆さまのご支援とご協力に深謝します」とお礼を述べ、〝交通ペン列車〟は車庫に入ったのである。



すずき・たかとし
1939年東京生まれ 62年産経新聞入社 社会部一筋に20年 警視庁記者時代に連続企業爆破事件などを担当 その後 東京・大阪本社販売局長 常務取締役販売担当として 日本新聞協会あげての著作物再販制度の維持・存続に取り組んだ 著書に『国鉄再建への道』『新聞人・福澤諭吉に学ぶ─現代に生きる「時事新報」』など
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