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陶淵明のユートピア 桃源郷へ行った話(石井 英夫)2012年9月

人間の永遠のあこがれの地のことを理想郷とかユートピアと呼ぶ。桃源郷や桃花源というのも同じことだろう。その桃源郷へ行った話をしよう。

 私はひところ中国各地の辺境を歩き回って取材していた。シルクロードやシーサンパンナなど奥地ばかりである。そのなかの一つに桃花源があった。もう十余年も前のことになるが…。


東晋の隠士であり詩人であった陶淵明(三六五─四二七)の『桃花源記』はよく知られている。モモに対する中国人の信仰と愛好はきわめて強いものがある。人びとはモモを夢幻の世界に誘い、邪気を払う仙木仏花とみた。陶淵明も、そこに俗世間を離れた平和な理想郷をゆめみたのだろう。


『桃花源記』にはこうある。


「晋の太元のころ、武陵源の漁夫が川に舟を浮かべてすすむうち、突然、桃の花の咲きそろう林に出た。両岸に桃の花が咲き誇り、花びらがはらはら舞っている。林は水源で尽き、一つの山とほら穴があった。


くぐり抜けるとからりと開けた土地があり、美しい田や池がひろがっている。村人は戦乱のことも時代の移り変わりも知らず、平和に暮らしていた。漁夫は歓待され、数日逗留して帰り、太守にかくかくしかじかと話した。


太守は漁夫に人をつけてそこへ行かせようとした。しかしもはやその道を見つけることができず、その後もその地を訪れるものはなかった」


◆◆


この武陵県の桃花源のことは、日本のガイドブックには載っていない。ただ中国の地図には、いまの湖南省常徳の西の山深くにあり、土家族や苗族といった山岳少数民族が暮らしているとある。


「常徳桃花源旅游区」のしるしがついていた。


面白い。行こうじゃないか。


じつは明治の人類学者・鳥居龍蔵(一八七〇─一九五三)は、この桃花源に足を踏み入れている。明治三十五(一九〇二)年から六年にかけて、中国西南部を踏破した記録『人類学上より見たる西部支那』は、いま朝日選書『中国少数民族地帯をゆく』となって再刊されている。


それによると鳥居は船で横浜から上海へ渡り、長江をさかのぼって洞庭のほとりの常徳へ着く。常徳から海賊を警戒しつつ、行くこと数日にして桃源府に達していた。鳥居は記している。


「『桃源記』はいつとなく一つの伝説となり、はては事実に結びつけられ、今は立派な歴史的事実のように取り扱われている。…秋の初めであるから、野といわず山といわず、桔梗、苅萱、女郎花など秋の草花咲き乱れ、その美しさいわんかたなく・・・けだしこの地方における日本人の来遊は、おそらく余をもって嚆矢とするであろう」


鳥居は一人の道士に導かれて、行程二里余、桃源洞に達した。そこには山門があり、桃源洞の扁額が筆太に記され、門を入ったところに大堂があって、茶菓の饗応受けた、と書いている。


鳥居の驥尾に付して、平成十一(一九九九)年の三月、私は中国国家旅游局の役人の案内で出かけた(許可がないと中国の奥地へは行けなかった)。


◆◆


まず湖南省の省都長沙から車で常徳をめざした。長沙は三千年の歴史をもつ古都で、しばらく前、馬王堆漢墓から出土した_侯夫人のミイラが世を賑わした。毛沢東など多くの革命家を輩出した地でもある。


常徳への道は、晩唐の詩人・杜牧『江南春』の世界だった。


「千里鶯啼いて/緑紅に映ず/水村山郭酒旗の風/南朝四百八十寺/多少の樓臺烟雨の中」


ゆるやかな丘が続いて楊柳が芽を吹かんとし、水田には水牛がゆったりと足をあげていた。走ること四時間余りで常徳へ。乗りこんできた地元の職員によると、桃花源地区の人口は三千。理想郷とはいえドロボウもいるだろう。「おまわりさんはいますか」と尋ねると「五人いる」。


常徳から車でさらに二時間、ついに桃花源へ到着した。


◆◆


仰天した。な、なんだこれは!


空からスピーカーががんがんと鳴り響き、道ばたにはさまざまな色彩の旗のぼりがひらめき、酒楼、飯店、カラオケ屋が立ち並んでいる。人びとがごった返し、人だかりは路上賭博のかたまりだった。空にはアドバルーンまであがっている。


折から桃の花の季節で、地区はお祭りだったのである。お祭りはいいが、そこは文字どおり、醜怪俗悪の観光地と化していた。


なるほど『桃花源記』の描写そのままに、一つの山(桃源山)があり、一つのほら穴もあった。天下の桃花源であることを示す石の碑刻があり、山にかけて方竹亭、水府閣、悠然園、双星亭といった名の寺閣が点在していた。


桃源山に向かいあっている丘の上の農家を訪ねてみた。水牛が二頭、豚が三頭、尋ねると年収六千元(一元は約十五円)というから豊かな農家の部類に入る。


「この向こうの丘は一面の桃の木の林だった。先祖代々の桃林だったが、その木をみんな切って畑にしたんだ。いまはヒノキ一本しか残っていない。なぜかって。命令だったんです。どうしようもなかった」


常徳旅游局のえらいさんに聞いてみた。桃の木がみんな細くて小さいのはどうしてでしょう。


「じつはみんな切ってしまったのです。一九六〇年代のことですが。食糧増産が至上命令で、しかも伝説や言い伝えは打破されるべきといわれた時代でした。しかし陶淵明の時代から、時代も進歩しました。桃花源も進歩したということではないでしょうか。これは難しい問題ではありますが」


◆◆


中国の大躍進政策は一九五九年に至ってはっきりと挫折する。洪水と蝗の害に加えて、人民公社という農業集団化の強制と、土法炉による鉄づくり運動による労働力の動員で、農民はくたくたにされた。土法炉は「中世の職人と同じ方法で銑鉄や鋼鉄をつくらされた」(チボール・メンデ『中国とその影』)といわれた。


湖南省は毛沢東の故郷であったが、「毛沢東はおよそ現実とかけ離れた“幻想”の世界をさまよっていたのだった」(柴田穂『毛沢東の悲劇』)。


そして一九六三年には「雷鋒同志に学ぶ」運動がはじまり、毛沢東崇拝がますますエスカレートする。やがてプロレタリア大革命の紅衛兵運動が赤いあらしとなって中国全土に吹き荒れた。


むろん桃花源地区もその例外ではなかった。


そこでやっと気がついた。桃源郷すなわちアルカディアとは、16世紀英国の社会思想家トマス・モア以来の理想郷である。ユートピアとは、そもそも「どこにもない場所」を意味する新しい造語だった。


桃花源とは桃源郷であり、ユートピアであり、この世に存在しない地だった。無何有(むかう)の郷だったのである。


そのわかりきったこの世の哲理を、はるばる中国の奥地へ出かけるまで気がつかなかった。六十面さげていまさら知ったとは、つくづくと情けない話だった。うかつで、愚かしい取材行だったのである。


いしい・ひでお 1933年生まれ

55年産経新聞入社 論説委員(コラムニスト)として、69年から2004年まで35年間一面コラム「産経抄」を執筆した。著書に『日本人の忘れもの』『ぶらり中国』『いとしきニッポン』ほか「産経抄」を収録した本など 88年度日本記者クラブ賞受賞 92年菊池寛賞受賞


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