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テルアビブ空港乱射事件・犯人速報(石川 荘太郎)2012年7月

「東京へ国際電話はつながるか?」

プロ登山家の竹内洋岳さん(41)が5月26日、ネパール北西部のダウラギリ峰(8167㍍)の登頂に成功、ヒマラヤ8000㍍峰全14座の完全登頂を達成した。17年かけて成し遂げた日本人初の快挙だった。


このニュースの中で特に私の関心を引いたのは竹内さんが「世界の屋根」から登頂の第1報を、どのように東京の事務局に連絡したか、だった。竹内さん本人はブログの中で次のように報告している。


「(頂上の)岩の影で風を避けながら衛星電話のスイッチを入れたがつながらない。無線もつながらなかったため頂上からの連絡を諦めて、登ってきたクーロワール(岩壁に切れ込む溝)に下りて、風を避けたところで無線が通じBC(ベースキャンプ=4600㍍)に登頂の連絡が出来た」


BCからは早速、衛星携帯電話で東京の事務局に登頂の成功が伝えられた。27日午後10時過ぎBCに戻った竹内さんは、その12分後には事務局に肉声の報告を行っている。


私が竹内さんの第1報の連絡方法に興味を持ったのは現役時代、といっても数十年前の話だが、取材先の外国から東京本社への連絡に苦労したことが何回もあったためだ。誰もが携帯電話を持ち、世界中ほとんどの場所と簡単に連絡できる現代と違って、私が現役だったころには通信面でいろいろな苦労があった。


ここに書く私の経験談は、厳密な意味でいえばスクープでも何でもない。たまたま東京との連絡回線が確保できたために、結果的に各社より一歩先んじたというだけの話だ。通信手段で悩むことのない現役の若い記者には想像もできないことだろう。


話は40年前の1972(昭和47)年にまでさかのぼる。この年は大きな事件が立て続きに起きた年だった。


#日本人テロリストの衝撃


1月にはグアム島で旧日本兵、横井庄一さんが発見された。2月の札幌五輪では笠谷、青地、金野の日の丸トリオがメダルを独占、その余韻がまだ消えないうちに連合赤軍のあさま山荘事件が起き、ニクソン米大統領が初めて訪中した。さらに高松塚古墳で極彩色の壁画発見(3月)、川端康成自殺(4月)、沖縄返還(5月)、田中角栄通産相「日本列島改造論」発表、ウォーターゲート事件発覚(いずれも6月)、パレスチナ・ゲリラがミュンヘン五輪でイスラエル選手団宿舎襲撃、日中国交正常化が実現した(いずれも9月)。


メディア関係でいえば、外務省機密漏えい事件で毎日の西山太吉記者が逮捕され(4月)、佐藤栄作首相が新聞記者を排除してテレビ・カメラの前で退陣を表明した(6月)のもこの年だ。


こんなざわついた1年の中で、日本に大きな衝撃を与えたのは5月30日夜(現地時間)、テルアビブ(イスラエル)のロッド空港(現ベングリオン空港)で起きた日本人テロリスト3人による乱射事件だった。


同日午後10時過ぎ、ローマからのエール・フランス132便がロッド空港に着陸、その便に乗っていた日本人3人が空港ビル内で銃を乱射、旅行客や空港関係者24人を殺害、86人に重軽傷を負わせるという事件だった。死者の内訳はプエルトリコ人巡礼客14人、イスラエル人8人、カナダ人、国籍不明各1人。負傷者の中には米、英、仏、西独、ドミニカ、モロッコなど多くの国の人達が含まれていたため世界中のマスコミがテルアビブに殺到した。


日本人3人はそれぞれ「ナンバ・ダイスケ」「スギサキ・ジロー」「トリオ・ケン」名義のパスポートを持ち、このうち「ナンバ・ダイスケ」はエルアル航空(イスラエル航空)の社員に取り押さえられたが、「スギサキ」と「トリオ」の2人は銃撃戦の最中に死亡した。


ところが、日本の外務省の調査で3人のパスポートはいずれも偽造であることが判明、3人の身元は分からない。日本国内では「3人は誰なのか?」が最大の関心事になった。


イスラエル当局の取り調べを受けていた「ナンバ・ダイスケ」は事件から2日後の6月1日(現地時間)、熊本県出身の鹿児島大学農学部4回生、岡本公三(24)であると自供した。残るは死亡した「スギサキ」と「トリオ」の身元確認である。


ここで当時のイスラエルの通信事情について触れなければならない。その頃、イスラエルに支局を持つ日本のメディアは1社もなかった。そのため各社は大勢の記者をテルアビブに派遣、その影響もあってか、テルアビブと東京との電話は非常につながりにくかった。現在では国番号、地域番号、相手の電話番号をプッシュすれば自動的に相手につながるが、当時はすべて国際電話局(日本ではKDD)を通じて国際通話を申し込まなければならなかった。ところが国際電話を申し込んでもなかなかつながらない。それが出先、本社双方の頭痛の種だった。


#グループ連携で他社をリード


こんな状況の中で当時テルアビブに出張していた警察庁の佃泰外事課長から各社に「5日午前11時(日本時間5日午後6時)に大使館で重要発表する」という連絡が入った。新聞では早版ぎりぎりの時間だし、テレビの夕方のニュースの時間でもある。電話はつながるだろうか?


当時、社会部から、発刊して間もない夕刊フジに出向していた私の他、テルアビブには産経の清水邦男パリ支局長、フジテレビからは山川千秋ロンドン支局長(故人)が出張してきていた。同系列だがそれぞれメディアが異なるため、佃課長の会見には3人そろって顔を出した。


各社の記者が控えている部屋に電話がかかってきた。近くにいた私が受話器を取り上げると、相手はフジテレビ本社外電班の亀垣幸男記者だった。私がとっさに考えたのは「この電話を切ったら、次はいつつながるか分からない」ということだった。東京からの電話だから、電話料金で大使館に迷惑をかけることもない。


その後のことは「フジサンケイ・グループ・ニュース・レター」に掲載された記事から引用しよう。


─電話を受けたのは石川記者であった。6時半のFNNニュースまであと10分しかない。それでは、と石川特派員が第1報、「犯人は奥平と安田」、「第4の男東京へ潜入か」のニュースが直ちに放送され、それがフジの特ダネになった。会見の取材を終えた山川、清水特派員も詳報を送り、完全に他社をリードした。


さて次は新聞である。現地から産経に電話を申し込んだのでは、いつつながるか分からない。「そのまま電話を切るな」。3特派員がテレビのニュース部に新聞原稿を送り始めた。おかげで産経は朝刊の早版からこの記事を1面トップに載せ、他紙を完全に引き離すことができ、クレジットも「テルアビブ5日=清水邦男、石川荘太郎、山川千秋特派員」の連名で紙面を飾ることが出来た─。


#通信技術の進歩と特派員


右の記事は、私たちにグループのニュースセンター室長賞が与えられたことを伝えた時のものである。ダウラギリ峰の竹内さんはBCから衛星携帯電話で東京に連絡した。だが竹内さんが1歳の頃には、テルアビブのような大都会からでも東京への電話は簡単ではなかったのである。


参考までに死亡した「スギサキ」は元京大生、奥平剛士(26)、「トリオ」は東大工学部7回生、安田安之(25)だった。大学紛争の敗北で一部のセクトは過激化、奥平らはPFLP(パレスチナ解放人民戦線)との連携を強めていたのだ。


当時を考えると、現在の通信技術の進歩は驚くほどである。世界中ほとんどの地点から電子メールで送稿できる。また東京でもインターネットで外国の新聞をその発行日に読めるため、日本の新聞の国際面が1日遅れのような気がする時がある。


通信手段は格段に便利になった。その反面、すべての情報が素早く東京でつかめるようになったため、特派員の仕事はより難しくなったのではなかろうか。 


いしかわ そうたろう 1940年生まれ 63年産経新聞社入社 ロンドン支局長 ワシントン支局長 外信部長などを経て 89年論説委員 退社後 2001年長岡大学産業経営学部教授 10年退職 現在 民間外交推進協会(FEC)参与 

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