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「僕たちの失敗」 バブル崩壊後 金融報道に思うこと(藤井 良広)2012年5月

「この記事に抗議します」。電話の向こうの主は、こう言った。しばしのやり取りの後、突っぱねると、最後に小さな声でこう付け加えた。「抗議は銀行としてのものです。私個人としてはこの記事に同感です」


1998年6月28日付の日本経済新聞朝刊に掲載された筆者のコラム記事を巡ってのやり取りだった。


●破綻条項の暴露


バブル崩壊後に胎動し始めた日本の金融危機は、1994年末の東京の東京協和と安全という旧2信用組合の破綻で激動の幕を開けた。以後、2000年代初めに鎮静化するまで、金融担当の経済部編集委員として、ヤマのように原稿を書いた。


その一つが冒頭のコラムである。97、98年に顕在化した大手金融機関の連鎖破綻の渦中で旧日本長期信用銀行は、市場の標的となっていた。記事は同行の自壊の背景を解説した。ポイントは、長銀が自力による危機回避を模索してスイス銀行(旧SBC=現UBS)と提携、その交渉で密かに「ディストレス条項」を導入させられたことを明かした点だった。


ディストレスとは破綻を意味する。条項は、市場での長銀株下落が一定水準を超す場合、合弁で設立する証券子会社などの株を、長銀がSBCに譲渡する内容。長銀にだけその義務が課される「不平等条約」だった。3月に追加的に導入され、外部にはもちろん、内部でも役員以外には知らされていなかった。記事掲載の時点で、長銀株は暴落状態。まさに条項発動は時間の問題だった。


なぜこの記事か、というと、公的資金注入の枠組みが整う前の金融危機の過程で、金融機関が自らの知恵と行動で危機を乗り越えかけた恐らく唯一の例であり、にもかかわらず、力及ばす憤死した点が一つ。もう一つは、この条項は日本社会が抱える「甘えの構造」の象徴、との思いが今も強いためである。


国際間の企業提携契約に盛り込まれた不都合な条項を記事にすべきか。提携に影響を及ぼさないか。そんな逡巡はあった。長銀株は暴落状態だが、その直接の要因は雑誌の報道と絡めた投機筋の仕掛けだった。投機に加担するつもりは毛頭ない。


されど、破綻前提の条項を結ばざるを得ない長銀側の足元はすっかり見透かされていた。後はない。事実を淡々と紹介しよう、と判断した。


記事中、同条項に触れたのはわずか5行。それで十分だった。それに、象徴的に付けたのが「僕たちの失敗」というコラムの見出しだった。


●無罪になった経営者


見出しは、少し前に人気を博したテレビドラマの主題歌から拝借した。私利私欲と、ご都合主義が優先される世の中で、純粋だが世事に疎い主人公たちが次第に追い詰められていくストーリー。主題歌を歌ったフォーク歌手、森田童子の切ない歌声が心に残った。


長銀は「失敗」の後、国有化、再民営化で新生銀行に転じた。一方、不良債権処理の責任を問われた元頭取の大野木克信氏らは、2008年に最高裁で逆転無罪を勝ち取る。同様の展開となった旧日本債券信用銀行(現あおぞら銀行)の場合も、昨夏、差し戻し控訴審で元会長窪田弘氏らが無罪を得た。10年余を経て一件落着。


だが疑問も残った。銀行経営者たちが無罪ならば、「失敗」は誰の失敗だったのか。刑事責任は無罪だが、冒頭の電話の主の私憤のように、経営責任は問われ続ける。訴訟で争ったのは当時の不良債権処理基準の妥当性だった。詳しい経緯は省くが、ざっと説明すると以下のようになる。


長銀、日債銀に限らず、当時の金融界は不良債権額を抑えるため、返済が思わしくない先にも支援の追加融資をして不良債権から除外していた。旧大蔵省(現金融庁)も認めた処理だった。ところが旧大蔵省は97年に資産査定通達を改め、支援先への追い貸しを否定した。


これに対して、支援先債権が多過ぎて査定変更のできない長銀などは、旧基準で決算処理をした。このため証券取引法違反(有価証券報告書虚偽記載)等を問われたわけだ。


判決は、当時の新査定基準だけが「公正な会計慣行」とはいえないとして、長銀経営者たちの名誉を回復した。だが長銀処理には、もう一つの重要な論点があった。


●政治と行政の「失敗」


それは、旧大蔵省の査定基準変更によって、経営者が相次いで刑事責任を問われたことの意味である。法律の変更ではなく、行政の基準変更によって、刑事責任が問われたり、問われなかったりするとすれば、行政は計りしれない力を持つ。


金融危機の渦中で、旧大蔵省が査定基準の厳格化に動いたのは、不良債権処理を実態に合わせようとしたためだが、同時にそれまでの自分たちの政策の甘さをカバーアップ(隠す)する意図もあったと思われる。行政自身の「失敗」を隠そうとする力が、長銀等への責任追及を通常以上に強めた疑念も浮上する。


政策的な意図はどうだったか。今ならば、信用金庫、信用組合の経営不振に対しても、金融庁は公的資金を注入できる。しかし、当時はその法的根拠がないうえに、与野党攻防では、長銀、日債銀の破綻が公的資金注入を認める新法整備(金融再生法)の条件と化していた。


政治は今と同じく参院が野党優位の“ねじれ国会”(当時の野党は民主党)。金融危機は政局とどっぷり絡まっていたのだ。事態打開の展望と、国民の納得をどこに置くかを探ろうと、政治家から突然の電話を受けることも一度や二度ではなかった。


ちょうど東京電力福島第一原子力発電所事故後のエネルギー計画の見直しを巡り、政治が政局を前提に着地点を推し測る現況と似ているかもしれない。


当時も今も、政治は政局絡みでしか動かず、行政は自らの政策責任にほっかむりをする。金融危機でも、原発危機でも、この構造は共通する。しかし、こういう政治や、こういう政府では、ダメなんじゃないか、と国民が思っていないだろうか。


●メディアの失敗は?


破綻から10年後の長銀判決を受けた各紙の報道には、「国策捜査」への指摘はあった。だが、先に述べた「行政指導」による強引な責任転嫁への言及は、見落としたかもしれないが、なかったように思う。本来ならば、この点の解明と、行政側の政策責任の明確化があって初めて、「国策捜査」批判は意味を為すはずだ。


金融報道に限らず、直近の原発報道などでも、メディアの情報発信力が中途半端に映るのは、こちらが年をとったせいかもしれない。だが、老婆心から言えば、メディアも「僕たち」の甘さから脱しきれていないのではないか。今も昔も、前線の記者はニュースを追い、特ダネを競う。このため、どうしても情報源の意向に沿う記事を書きがちになる。


現役時代、役所同士の権限争いに絡んで、他省庁の記者クラブ所属の同僚記者と、何度も張り合ったことがあった。だが今にして思うと、ともに彼らに資する記事をたんまり書かされただけだった。


長銀問題の場合はどうだったか。当時は市場も政治も、金融危機を封じ込める(公的資金注入の法制化)には、危機の大きさを世に示す必要がある、との雰囲気が支配的だった。それは政治にとって政局を有利に導くことにつながり、市場にとっては空売りでの荒稼ぎにつながった。そしてメディアにとってはセンセーショナルな大記事の連続になった。


優秀だが「野戦」に弱い金融マンたち。彼らだけでなく、世界を語れない政治家、国内利権死守を最優先する官僚機構、それらを相手に「受け身の取材」にとどまる既存メディア。つまり、随所に「僕たちの失敗」があり、この国の前途を、頼りなく、危うくさせているように映る。


感傷から抜け出し、「失敗」の積み上げの中から教訓を導くメディアの役割を、もっと強く自覚し、推進すべきだろう。そうしたメディアへの期待は日々求められており、決して色あせていないと思うが、どうか。



ふじい・よしひろ 1949年生まれ 72年日本経済新聞社入社 88年から欧州総局ロンドン駐在記者 金融担当の経済部編集委員を経て 06年から上智大学大学院地球環境学研究科教授 著書に『頭取たちの決断』『中坊公平の闘い』など多数


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