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ブルーライト東海村JCO臨界事故(伊藤 三郎)2011年9月

─書いたけれど載らなかった話─

今回は、「書いたけれど載らなかった話」を。テーマは他でもない。原発・核燃料サイクルという今日的な重い問題。この原稿がなぜ引き出しに長年眠ることになったのか。四百字詰め十数枚のエッセーのさわりの部分とともに、ことの顛末を開陳する ─ 。


●NYタイムズ見出しは


「ピカッと光、制御不能」


幻の原稿は以下のような書き出しだった。



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“ピカッと光、そして制御不能の核分裂連鎖が…”

(“A Flash, and an Uncontrolled Chain Reaction”)

1999年9月30日、日本の核燃料加工会社「ジェー・シー・オー(JCO)」の東海事業所(茨城県)でこの国初の臨界事故が起こった。その翌日の米紙ニューヨーク・タイムズ「第一報」の見出しである。この記事は事故の模様をまずつぎのように伝えた。

 「ウランが核分裂連鎖を起こし始めた時、専門用語で言えば、“臨界”に達した時、突然放射線の不気味な光、青い光(a flash of blue light )が…核燃料加工施設で液化ウランをかき混ぜていた作業員の一人がこの光を見た、というのだ」(筆者訳)

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この印象的な情景描写を冒頭に引用したのは、現場作業員の初歩的ミスにNYタイムズ記者がいかに驚いたかが見事に現れていたからだ。そして拙稿は、事故の背景へと続く。



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問題は原子力発電の分野を電力業界という極めて特殊な業界に委ねている点にある。「特殊な」という意味は、全国の電力市場を9(現在は10)地域に分割して地域独占を認め、その料金は政府の許認可制。国営・公営に近い「特権」を与えられる一方で、株式を公開し、営利を目的とする民間企業である。こうした「民」とも「官」ともとれる曖昧な性格をもった業界に原子力の平和利用に限って担わせる、そういう分かりにくいわが国の原子力開発体制が、こんどの「核分裂事故」の底に横たわっている。

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この原稿を載せてくれなかった雑誌の名は「租税研究」。社団法人・日本租税研究協会(会長=今井敬・新日本製鉄名誉会長)の月刊機関誌である。この協会は、「民間の立場から財政・税制問題を調査・研究するための団体」(ホームページから)で、役員には財界、国税庁、財務省(旧大蔵省)のOBや幹部がずらりと並び、官民協同の総本山のような組織。「租税研究」は世界中の税制や経済をめぐる論文を満載した極めてお堅い雑誌。その中で唯一、「何でもあり」の巻頭エッセーを輪番で私が担当していた。


●「核爆発ではないか」 科学記者に食い下がる


いつも通り締め切りに合わせて原稿を送り、あとは校正のためのゲラを、と待っていたところ、デスク役のT氏から電話で「誠に申しわけないが、頂いた原稿を掲載できません」と。理由はこうだった。


当時、同協会の会長は那須翔・東京電力相談役(元社長、会長)、T氏はその関係で東電から同協会に転出、機関誌の編集を担当していた。つまりこの時、「租税研究」の編集は“東電シフト”が敷かれており、原子力発電と核燃料サイクル政策をめぐって政府と電力業界を厳しく批判した拙稿を通すか、否かは、T氏のサラリーマンとしての命運を左右する難問であることを、この瞬間初めて認識したのだ。


この欄を執筆した94年11月から春秋計10回の5年間。編集者とのトラブルは一度もなかっただけに、突然の掲載拒否は衝撃的だった。


「わかりました。この原稿はなかったことにしましょう。ただし、今回をもって巻頭エッセー執筆は終わりに ─ 」


自分と同じサラリーマンであった編集者T氏に対しては「武士の情け」で穏便に収める一方、租税協会という組織に対しては「三行半(みくだりはん)」を突きつけて、この問題に私なりのケリをつけた。


幻のエッセーに戻ると、以前から科学記者(の一部)の原稿が原子力政策に甘いことへの私の不満が「事故当日の編集局」の場面に、その痕跡を残している。



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(「臨界事故」の速報を伝えた夕刊早版を手に、「臨界事故では何のことやらわからん!」と叫ぶや、原子力専門記者に食い下がった)「東海村の核燃料工場で起きたことは、小なりとは言え“核爆発”ではないか…」。(略)「今朝東海村から東京に出てきた人々が、今から家に戻って放射能は大丈夫か、どうか。一番肝心なことが夕刊の記事ではわからんのだ」

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当時、「朝日新聞」で国際シンポジウムや創刊120周年記念事業の裏方役を命じられ、本業の筆はお預けを食っていた。そのイライラに、核燃料工場のお粗末な事故が重なって、私の怒りも「臨界」に達したのだろう。筆の矛先はわが国の核燃料サイクルへと向かう。


この政策推進の柱となってきた「動力炉・核燃料開発事業団(動燃)」は、東海村事故に先立つ90年代に高速増殖炉がらみの事故と開発計画の遅れに手を焼く。業を煮やした政府は「動燃」を解体して「核燃料サイクル開発機構」に改組(98年)、さらにこれを日本原子力研究所と統合して現在の「日本原子力研究開発機構」へ(05年)。が、この改組の繰り返しで核燃料サイクルの前途がどれほど明るくなったのか。海外からの辛辣な批判も拙稿に紹介した。



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「日本の核開発政策は、どんな犠牲を払っても前進一途というひどいもの。こんどの事故も起こるべくして起こったものだ」 ─ 以前から日本の原子力政策に厳しい目を注いできた地球環境問題のNGO「グリーンピース」関係の核問題専門家は、東海村の事故にこうコメントした(ワシントン発ロイター通信)。

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●素人の意見が大切だ


核最先進国である米国が早々と高速増殖炉開発からの撤退に踏み切り、続いてフランスの実証炉開発計画ももたつき、英国、ドイツも開発を見合わせ…といった世界の動きと、「前進一途」の日本を比較しつつ、私は「幻のエッセー」をこう結んだ。



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こんどの「核分裂事故」をきっかけに高速増殖炉断念への政策転換を、と求めても、開発推進論者や関係者は簡単には納得しないかもしれない。それでもあえて主張するのは、原子力の分野ではとりわけ素人が意見を吐きつづける事が大切だと思うからだ。

 東海村の“うっかり臨界”事故を民間企業作業員の単なる不始末、という結論で終わらせてはいけない。世界の原子力関係者たちを唖然とさせた作業ミスも、実は日本の核燃料サイクル政策の混乱がもたらしたのではないか ── 。

 ブルーライトが似合うのは横浜! 東海村に「青い光」は今回限りにしてほしい。

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今にして思うに、私は拙稿の掲載を拒否された時、「言論の自由」を傷つけたことに対し、日本租税研究協会に抗議の一筆を提出すべきだった。この掲載拒否の一件を「なかったことにした」私の言動に対する「甘かった」という批判は甘受する覚悟で本稿を書いた。


多くの市民の幸せを奪い、いまだに確たる収拾の道筋も立たぬ「フクシマ原発事故」の不条理を前にして、ようやく踏ん切りがついた。ここは自らの恥を忍んでも、電力会社による露骨な言論操作の一端を文字の記録に残しておかねば、と。


いとう・さぶろう 1940年生まれ 63年朝日新聞入社 ヨーロッパ総局員(ロンドン) 週刊誌AERA副編集長 フォーラム事務局長 編集委員などを務め 2000年退社 朝日カルチャーセンター(札幌)社長 福山大学客員教授を経て 現在フリーランス

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