取材ノート
ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。
私とベトナム③ ドジからかいま見たベトナム(田中 信義)2011年6月
独断と偏見である。
ハノイとホーチミンでドジを踏んだ.
ハノイでーー。
私にとってのベトナム戦争の取材は、南ベトナム駐在を始め一方的に南側からの取材に終始した。解放戦線村やホーチミンルートをかいま見た以外、北側からの取材はなかった。
ベトナム戦争が終わって24年たった1999年8月、私は始めてハノイを訪れた。興味津々だった。ベトナム戦争の勝者は今どんな顔をしているか。私は早速、ホーチミンチミン廟を訪れた。中に入って遺体の安置所まで行くのに長蛇の列、1時間かかった。参詣者は外国人だけではない。ベトナム人がほとんどだった。
タクシーに乗ってホテルに戻った。「しまった。カメラがない」。どこで忘れたのか。覚えがない。幸いタクシーの領収書をもらっていた。駄目だろうなと思いつつ、タクシー会社に電話をした。「探してみます。」という。ほとんどあきらめていた。ところが、しばらくしてタクシー会社から「ありました。今からホテルに届けます」との電話。カメラは無事戻った。
信じられなかった。感動した。戦争で人の心は失われていなかった。届けてくれたタクシー運転手に心を込めて有り難うと握手をした。
ホーチミンでーー。
2010年3月ホーチミン市やフエ、ホイアンなど元の南ベトナム各都市を訪れた。3回目のセンチメンタルジャーニだった。
事件はホーチミン市で起きた。旧大統領官邸、今の統一会堂を見た後、タクシーでサイゴン川に面したホテルに戻った。
事前にタクシーには気を付けるよういわれていた。旅行社からこのナンバーのタクシーなら安全だから、というタクシーを探して乗った。
ところが、このタクシーがくせ者だった。ホテルのエントランスに入らず、サイゴン川側にとまり、ここで降りろという。ホテルに行くには道路を横切らなければならない。タクシーは料金を受け取るや否や立ち去った。
タクシーには4人が乗っていた。私は最後に車から降り、サイゴン川でも見ようかと歩き出した。すると、若い男性が近づいて、週刊誌を買ってくれ、と、しつこく体を寄せてきた。いらないよ、と断ったが離れない。
体をぶっつけてきた。何をするんだ、と怒鳴ったとたん、男はさっと離れた。
そこに、後ろからバイクが走ってきて、男はそのバイクに飛び乗り逃げた。
同行者が財布は大丈夫かと聞く。腰に手をやった。ない。やられたと叫んだが、後の祭りだった。明らかにタクシーとスリとバイクのグルの仕業だ。
サイゴン特派員時代もスリにやられた。このときは、サイゴン闇市場でやられた。戦場取材に行くための細々した品物を買うために闇市場にいった。ここには、アメリカ軍兵士の軍服や装備品が売られていた。
いきなり数人の少年に囲まれ「give me money, give me money」としつこくやられた。それに気をとられているうちに、別の少年が後ろにまわり、膨れた財布を抜き取った。やられたと気づいた時には、まわりから少年たちは消えていた。あざやかである。
したがって、十分注意していたはずだったが、またも失敗した。我ながら情けない。
ベトナムは戦後ドイモイ政策を導入し、経済的には急速に発展していた。しかし、汚職天国といわれるくらい、汚職は減っていない。どうも、南のスリも戦中戦後変わっていない。いや、増えているかもしれない。それだけに、ハノイでの経験は清涼剤だった。
どちらもベトナムの今である。
(2011年6月記 元NHK記者)