取材ノート
ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。
垣間みた「三角大福」の素顔(樋口 剛)2002年7月
佐藤長期政権下の実力者たち
最初に出会ったのは田中角栄氏。64年11月の佐藤内閣誕生で蔵相ポストに留任、当初「池田氏の操り人形」と軽く見ていた大蔵官僚たちも、このころには見る目が一変しつつあった。予算委員会でも答弁にまごつく新首相を頻繁に手助けする蔵相が目立ち、支局からいきなり「財研」に放り込まれた新米経済記者は「この内閣は実質田中内閣で、この調子じゃ佐藤さんは1、2年だナ」と勘違いしたほどだった。
田中氏にとって政治の仕事の進め方は、彼が土建業者だった時代とほとんど変わらぬものだったのじゃないかと思う。もちろん、彼が政治家として国政・外交について独自の識見と鋭い感覚を持っていたことは確かだが、役所と目白での陳情客やわれわれへの応対などを思い出すと、その手法は短い時間に大量にさばく「能率最優先」で、きわめてビジネスライクだった。ことばは悪いが、十把ひとがけらといった扱いで、陳情客やジャーナリスト1人ひとりにもっと親切にみえた福田赳夫氏が、政治部記者の間では田中氏より評判が悪かったのが不思議だった。
たとえば財研記者の夜回りは、曜日と人数が指定され、ジョニ黒のある目白の玄関近くの大部屋が恒例、時間もだらだらと長引かなかった。それでも「角さん」が経済部記者にも好評だったのは、どんなときも記者のほしがるものがジョニ黒でもお愛想でもなく、「ネタ」であることを熟知していたからだと思う。彼はいつも会見や夜回りに来た記者が目立つ記事が書けるよう鮮やかにサービスした。
後年の1971年秋、ワシントンでの日米経済合同委の際、閣僚たちと同行記者団の昼食会があったときの田中通産省の話も忘れ難い。たまたま隣席になったが、途中、村上孝太郎参院議員急死のメモが田中氏に入った。このとき、角さんはこう言った。
「彼はネ、おれが選挙に引っ張り出したんだよ。最初公認を決めたときはうれしそうに胸を張って幹事長室に入ってきたね。しかし、選挙戦が進むにつれて急に不安になってきたらしく、投票日間近になってまたおれの部屋に来て、“不安だ。もっとテコ入れしてくれ”と言う。おれは言ったヨ。キミ、いまどこから入ってきた?表のドアから堂々と入ってきたろう。キミはもう大蔵次官でも主計局長でもないんだヨ。選挙というものは役所のように絶対なんてことはそもそもないんだ。だれもがいまのキミのように猛烈に不安なんだ。そういうときは、そういうときの態度というものがある。おれなら裏口の木戸から入ってきて土下座して応援を頼むネ・・・って言ってやった・・・・・」。
迫力に満ちた、プロ政治家の赤い顔がそこにあった。
◇
大平正芳氏は、四人の中では最も長い時間一対一で接触した人物なので、つい「大平さん」と書きたくなる。大平通産相時代、日本経済は57カ月におよぶいざなぎ景気で順風満帆、佐藤内閣も沖縄返還交渉が着実に進行していたが、外様扱いの大平さんは八幡・富士製鉄合併、沖縄とからんでもつれた日米繊維交渉、資本自由化問題などで、面倒な毎日だった。
ところが用賀の大平邸へ夜回りに行くと、いつも他社は不在、訪ねれば広い応接室のソファに長々と横になっている大平さんを独占できることが多かった。他社が大平邸へ行かないのは、記事になるような情報が一切出ないからで、こちらもひとつ質問すると、答えが出てくるまで4-5分ということが多かった。しかし、長居していると話はいつのまにか政治一般、文学、人生といったテーマになり、それらの会話がいつも新鮮で面白く、暇ができるとクルマは自然に用賀に向かった。
そんな一夜。大平さんは例によってソファに寝転び、フランスの狂死した女流詩人の伝記を読んでいたが、話は回顧談になり、大平さんはこんなことをつぶやいた。
「ぼくは二度外務大臣をやったが、一度目は幹部がぼくより年上でね。やはり役人は年次をみるからいろいろ苦労したヨ。その点、二度目は本当にやりやすかった」
「吉田書簡のあと台湾へ行き、蒋総統にお会いしたんだが、やはりかつて400余州を統治した過去が懐かしいんだね。閣下、あのときはどうでした?などと水を向けると話が長くなってネ」
「日本は、中国、韓国、東南アジアいずれの国とつきあうときも、あちら側には戦争の被害者だという意識とともに、戦後日本の経済的成功に対するジェラシーが背後にあるということを忘れちゃいかんよ」
最後の発言は、大平さんらしくないと意外だったが、最近の日本の政治家たちの言動をみていると、大平さんの発言は正しく、いまはこちらにそうした感情が働いているように思えてならない。
大平さんには誰知れずかわいがってもらったような思いがあるが、宏池会担当の政治部記者とはそれはもう段違いだった。特にM紙のNさんなどが来訪されると、それまで間延びした会話をしていた大平さんが急に生気を帯び、こちらの話は中断、奥のマッサージをやる和室にNさんを呼び込んでヒソヒソ話(?)をするのが常だった。あるとき、それを言ったらニヤリとして「政治というもんはキミが想像しているようなキレイなことばかりじゃないんだヨ」と明快に返された。
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福田赳夫氏は、円切り上げ直前の71年の前半、2度目の財研づとめでお付き合いいただいた。福田氏も「福田さん」と呼びたくなるような優しいお人柄で、深沢のご自宅は朝から地元の人たちであふれ、顔見知りの記者には大蔵省、国会のどこでも、向こうから「オーッ」と声をかけられる。会うといつもさわやかな風が吹いてくるような魅力を感じていた。これは持論だが、どんな分野でも、大組織の親分というものは、そばにいると人を惹き付けるオーラのようなものがあるものだ。
福田さんは、頭の良さが際立った政治家だった。当面する問題には常に正確で詳しい知識があり、まじめにその対応を考えているフシがうかがわれ、新米記者の思いつきの発言でも、突っ込んでさらに意見を問われるというところがあった。
ある日の定例会見で春闘相場が話題になり、某紙のベテラン記者が数字なしで政府の対応について批判めいたことを言ったらたちまち「キミは、今年は何パーセントになりそうと思っているかネ?」と逆質問、勉強不足の彼が言葉に詰まってしまったことがある。会見ではこういう場面がしばしばで、福田さんは頭がキレ過ぎて結果として人のプライドを傷つけ、きらわれたようなことがあったのかもしれない。
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終始反主流派だった三木武夫氏とは、一度虎ノ門クラブの数人と南平台のご自宅でご馳走になっただけの接触で、7年半ついに担当記者としてお付き合いすることはなかった。ただ、1つ、日米繊維交渉がもつれ切っていたころ、当時の三宅通産省繊維局長(池田通産相時代秘書官)があるパーティーで、海上の隅の方に呼ばれ、小声で「キミ、佐藤は繊維で困っとるよ。徹底的にやりたまえ」といわれた、と苦笑していたことを思い出す。「バルカン政治家」と言われた三木氏の一面を垣間みた思いだった。
「書かなかった話」ばかりになったが、これで以上がすべて「書いた話」になった。往事茫々――ではあるが、いまも心に残るのは、彼らに共通していた政治への「熱き魂」である。
ひぐち・たけし会員 1936年生まれ 60年日本経済新聞入社 経済部記者 編集局総務 出版局長 取締役事業局長を経て 94年退社 日経リサーチ社長会長 相談役 顧問 山梨学院大学講師