ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


書いた話/書かなかった話 の記事一覧に戻る

体力の限界みた第四次中東戦争取材(林 茂雄)2002年5月

停戦後プレスバスに砲弾
1973年10月6日、エジプト軍はスエズ運河を渡って6年前の第三次中東戦争でイスラエルに占領されたシナイ半島奪回作戦を開始、同時にシリア軍は同様にゴラン高原に進攻した。同日はユダヤ教の祝日ヨムキプール(贖罪の日)。エジプトのサダト、シリアのアサド両大統領が周到に示し合わせての失地回復の共同作戦。第四次中東戦争の勃発である。

当時私はロンドン特派員だったが、仕事の3分の1はイスラエルをカバーしていた。エジプトのイスラエル承認以前はカイロ特派員が自由にイスラエルに行けないために、各社とも欧州駐在員特派員がイスラエル専用の2つ目のパスポートを持つ“中東要員”を務めていた。イスラエル入国記録があるとアラブ諸国には入れなかったからである。前年には日本赤軍が引き起こしたテルアビブ空港乱射事件や犯人の1人岡本公三の軍事裁判なども担当した。

「早く現地に行け」との指令を受けたが戦争とあってイスラエル航空を除いてテルアビブ行きは全便運休。ヒースロー空港で外人記者証を掲示、「危険は自己責任」の誓約書にサインしてようやくにジャンボ機に乗った。が、その扱いは屈辱的。日本赤軍のおかげでイスラエルの日本人を見る目は厳しかった。指定された座席は最後部の乗務員の前。つまり監視付きの飛行だった。

テレアビブ空港のエプロンにニューヨークからのジャンボ機が駐機、イスラエル軍の制服を着たアメリカ人が降りてきてそのまま軍用トラックで前線に向かう。聞けばイスラエル国籍を持つ者の動員とか。アラブ諸国ではイスラエルを米国の51番目の州と皮肉るが「なるほど」と実感した。

主戦場はシナイ半島とゴラン高原。携帯電話やノートパソコンでどこにいても本社と連絡が取れる現在の通信状況からは考えられないだろうが、当時イスラエルで国外への電話やテレックスが使えるのはテルアビブとエルサレムだけ。前線取材は情報省がプレスバスを仕立ててシナイ戦線に向かう。

前線で軍用ハーフトラックに乗り換えて拠点回りをするのだが、往復に15、6時間かかる。未明に出て深夜に戻り、原稿を送って夕食を終えると次のバスが待っている強行軍。眠るのはもっぱらバスの中。数日間はつきあったが、体力の限界がみえて隔日にした。疲労の限界だったのか砂漠を走る大揺れのトラックの荷台で座りながら眠った。ロンドンからは浅井泰範(朝日)、小西昭之(毎日・故人)、亀田政弘(産経・故人)、長谷川哲夫(TBS・故人)パリから谷口侑(読売)氏らが取材に来ていたのを記憶している。

戦況はイスラエル軍がギジ、ミトラ両峠でエジプト軍の初戦の進撃を食い止めて、開戦から10日後に反撃に転じた。アリエル・シャロン(現首相)とアブラハム・アダン両将軍指揮の二個師団を先頭に、イスマイリア南方のスエズ運河に舟橋を架けて西岸[アフリカ大陸側]に進出、拠点を築いた。この時シナイ戦線に参加した両軍の戦車は2000台を上回り、戦史上最大の戦車戦をシナイ砂漠で繰り広げた。装甲指揮軍から身を乗り出して兵士を励ますシャロン将軍の勇姿が目に浮かぶ。

戦況不利とみたサダト大統領はカイロに来ていたコスイギン・ソ連首相を通じて停戦工作に入った。敗色濃厚にならないうちに停戦すれば政治的には勝利との読みだった。ブレジネフ書簡がニクソン米大統領に出され、キッシンジャー国務長官がモスクワとテルアビブを訪問して10月22日夕刻を期しての停戦を求める国連安保理決議が採択された。

翌23日私たち外人記者団はプレスバスで運河に架かった舟橋を渡り、黒煙を上げて燃えるスエズ製油所取材に向かった。停戦が成立しているので砂漠に静寂が戻っていた。「ビザなしでエジプトに入国したな」と軽口が出ていた。

その時である。ヒュルヒュルと不気味な音を立てながら砲弾が飛来、バスから2,300メートルの砂丘に砂煙が上がった。プレスバスは青旗を掲げて、車体にはPRESSと大書きしてあるので軍用車両と見誤られるはずはなかった。エジプト軍がなぜ攻撃を加えたのかは今も分からないが、前後をイスラエル軍の装甲車両に護衛されていたのが裏目に出たようだ。窓外を見ると数台のエジプト軍の戦車が砂丘の陰から現れて、こちらに向かって進んでくるではないか。

停戦協定は成立していても両軍ともに「相手から攻撃を受ければ反撃せよ」との命令が出されていた。バスは急停車、騒然とした中で私たちはバスから飛び降り散開避難した。道路脇にはタコツボ型のバンカーが掘られていたが、各国記者の走りの早いこと。私もタコツボを探したがいずれも先客がいる。やむなく数日前の戦闘で動けなくなった軍用トラックの陰に身を伏せた。

相変わらずヒュルヒュルの音が頭上を通過する。本当に怖かった。これでわが人生も終わりかとの思いが頭の中をよぎった。

どのくらい固まっていたのか。ヒュルヒュルの音が途絶えたので恐る恐る顔を出してみると、どこから現れたのかイスラエルの戦車数台が砂丘に向かっていくのが目撃された。エジプト軍の戦車は視界から消えていた。

この時RAI(イタリア放送)のテレビクルーは望遠レンズで近づくエジプト軍戦車の撮影をしていた。映像メディアの職業意識は恐怖を忘れさせるのか。心底「すごい奴らだ」と感じた。スエズ取材は中止になり帰途についた。

後日聞いた話だが、停戦成立時に最前線ではよくあることだという。停戦命令が末端まで徹底していなかったり、相手の動きを攻撃と見誤るからだ。この時もシナイ半島の各地で停戦協定成立後の交戦が行われ、翌日に2度目の停戦時間が設けられてようやく戦闘が止んだ。

この時から29年。シナイ半島の占領地はエジプトに戻り、スエズ運河は再開されたが、ゴラン高原は当時のまま。ヨルダン川西岸の占領地にはユダヤ人の入植者が増えている。パレスチナ自治政府はできたが、過激派による対イスラエル自爆テロが続発。中東和平の行方はお先真っ暗だ。

3年前の99年3月にエルサレムから陸路でガザを経てシナイ半島を南下、スエズ運河をフェリーで渡ってカイロまでドライブした。シナイ半島の道路脇の砂漠の中にはところどころに赤さびだらけの戦車や装甲軍の残骸が当時のままに放置されていた。



はやし・しげお会員 1931年生まれ 55年中日新聞入社 カイロ ロンドン テヘラン各特派員 ワシントン支局長 アメリカ総局長 編集委員などを務める  96年退社
ページのTOPへ