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日中共同声明を追う(島 脩)2002年3月

田中訪中同行取材
新聞記者という職業は、毎日答案を書いているようなものである。厳しいが、ばん回のきく仕事である。私自身の記者人生もそうした出来、不出来の繰り返しの日々であったが、30年前の日中共同声明にはいまなお悔しさとこだわりがある。

1972年9月、田中首相の訪中に同行した85人の報道陣が、4泊5日の北京交渉を通じてひたすら追い求めたキーワードは3つあった。「法的戦争状態の終結」「台湾問題」「戦争賠償」の処理が日中共同声明にどのような表現で盛り込まれるか、首脳会談の成否を決めるその「文言」を一刻も早くキャッチし、報道する役割と責任を担っていた。

日本といわゆる15年戦争を戦った蒋介石政権は、その後内戦に敗れて台湾に逃げていた。日本政府は、その台湾政権との間で日華平和条約を締結し、一連の戦後処理は同条約によって解決ずみとの立場をとっていた。しかし、大陸中国を統治する北京政権がこれを認めるはずがなく、「日台条約廃棄」を強く主張していた。

こんななかで、田中内閣は発足直後から、様々なルートを通じて局面打開の方途を探り、日中首脳会談で一気に決着をつける運びとなった。この時、私が北京に携行した取材ノートには、台湾問題について「カイロ宣言=日本は台湾を中国へ返還」「ポツダム宣言=カイロ宣言の履行」と赤線付きで記されていた。

事前の外交事務レベル折衝では、「台湾は中華人民共和国領土の不可分の一部」という主張に「同意」を迫る中国側と、「理解、尊重」にとどめたいとする日本側の意見が対立、折り合いがつかなかった。そこで政府が密かに容易した打開案は、台湾帰属に関する過去の歴史文書に言及することで、それを受け入れた日本の政治的立場と問題意識を明らかにするというものであった。

日中首脳会談で合意した共同声明は、私たちの取材が正しかったことを裏付けている。台湾帰属について日本政府は中国政府の立場を「理解し、尊重する」としたうえで「ポツダム宣言第八項に基づく立場を堅持する」と宣言している。だが“特ダネ”にはならなかった。事のてん末はこうだ。

■「記者の仕事ぶりをみてるゾ」

首脳会談が結実し、共同声明発表の前夜、人民大会堂で田中首相主催の晩さん会が開かれた。終了後、宿舎への車を待つ高島条約局長のそばへ駆け寄ると、「一問だけだぞ」と機先を制され、とっさに口にした質問は「共同声明の項目は1ケタか2ケタか」。局長は「2ケタに一番近い1ケタ」と短く答えて車に乗り込んだ。「前文と本文9項目」という小見出しが一瞬頭をよぎったが、すぐに肝心の「2つの宣言」を忘れていた愚かさに気がついた。

案の定、翌朝発表の共同声明にはポツダム宣言の6文字。記者会見に現れた大平外相はカイロ宣言とポツダム宣言の関係について述べ、「そのポツダム宣言をわが国が受託した経緯に照らせば、政府が宣言に基づく立場を堅持するということは当然である」。私の取材ノートに書かれたメモをなぞるように進む外相の背景説明を、ただぼう然と聞いていた。相手玉を追い詰めながら、土壇場で大ポカをやって自玉がトン死した棋士のような心境であった。

後日、高島局長に尋ねてみた。

「あの時、共同声明にカイロ宣言は出てくるか、と聞いたら・・・・・・」

「答えはノーの一言だ」

「では、ポツダム宣言だったら」

「それなら肯定的な返事をしたはずだ」

「ほんとうですかね」

「いつも言っているだろう、勉強している記者にはきちんと対応すると」

「・・・・・・」

これには説明がいる。

当時外務省では、局長や幹部に対する取材は役所の仕事が一段落する夕刻以降が慣例だった。1人の局長をみんなで囲んで懇談することもよくある。そんなある時、高島局長が「複数の記者に同じことを話しても、翌日の新聞を読み比べてみると記事の内容に差がある。君たちはあの役所のあの局長はいいとか、ダメだとかいろいろ批評しているが、取材される側もそれ以上に記者の仕事ぶりをみているよ」と語った一言が強く印象に残っている。

同じ情報、ヒントを提供しても、それを書く記者の平素の取材の蓄積や勉強の度合いによって記事の確かさや厚みが違うことを、高島さんは指摘したかったのだと思う。「まじめに努力し、勉強している記者にはこちらもきちんと対応する」とも付言した。

だから共同声明の件では、返す言葉がなかった。そして「前文と本文9項目」の記事より「台湾帰属でポツダム宣言引用」をスクープしたほうが、記者の能力としては数段上、といまでも私はほろ苦い思いで振り返る時がある。

■「法匪発言」はなかった

最後に、「法匪発言」に触れておきたい。このエピソードは、条約論を盾に中国側の要求に厳しく反論する高島条約局長に対して、周恩来総理が「高島局長の主張は法匪発言だ。日中正常化を壊すためにやって来たのか」となじって険悪化した。しかし、最後の晩さん会で総理は「会談ではこちらの立場もあるから悪しざまに言ったが、実をいうと中国にもああいう有能な外交官がほしいのです」と述懐したというものだ。

帰国後改めて取材した私の結論は、大筋はそうだが、話題の中心「法匪」という発言自体はなかった、である。にもかかわらず「法匪発言」は次第に既成事実化して、しばしば紙面に登場するようになった。私は、現場に立ち会った“歴史の証人”の1人として自分の手で確証をつかむまでは絶対に書くまいと心に決めた。

20年後、田中訪中に同行した政治部記者有志による訪中団に参加の機会が訪れた。日中復交の舞台裏を支えた孫平化氏は、中日友好協会会長。私の質問に「法匪という言葉は、もともと中国の辞書にはありません」と明快に答え、周総理の通訳を務めた王效賢さんは「総理は非常に厳しい表現で批判したが、法匪という発言はなかった」と証言した。

長年の胸のつかえがやっととれた気がした。これは「書かなくてよかった話」である。



しま・おさむ会員 1932年生まれ 57年読売新聞入社 長野支局 北陸支社 政治部記者 論説委員長 編集局長 論説・調査研究本部各顧問を経て 2000年9月から調研客員研究員 帝京大学法学部教授
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