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沖縄返還交渉を追う(佐久間 芳夫)2003年3月

基地でつかまる苦しい思いも
1967年(昭和42年)11月のこと。佐藤首相とジョンソン大統領との日米首脳会談で沖縄・小笠原の施政権返還が議題となるとあって、私は現地の反響を取材すべくカメラマンとともに沖縄へ出張した。

那覇に着くと、当時北ベトナムへ渡洋爆撃を繰り返していた米戦略空軍のB52爆撃機が、台風を避けるためグアムから嘉手納基地に飛来したとのニュース。早速、地元の人に教えてもらい、基地近くの小高い丘に登ってチャンスをうかがった。

来る途中、フェンス越しに見えた黒ずんだ巨体もここからはほとんど見えない。早く飛んでくれないものか。ものの十分ほど経過しただろうか。下の道路にパトロールカーが止まり、降りてきたMPと琉球警察の警官が手招きしている。

「あなた方は何をしているのか。ここは基地の一部である。撮影はもちろん、立ち止まってもいけない」と告げるなり、抗弁する私たちを引っ立てるようにして基地内に“連行”していった。

はじめ戦略空軍の犯罪調査部とおぼしき不気味な部屋に入れられた私たちは、日米首脳会談の関連で東京から取材に来たこと、沖縄における米軍基地が果たす役割は理解している、その証拠にはあらかじめ基地の取材を申し入れているはずだ、調べてみよ、とまくしたてた。

その主張が通じたか、やがて米4軍調整官なる軍人と琉球民政府の日本人係官がやってきた。

「どんな根拠でわれわれを拘束するのか」「立ち入り禁止地区に入ったというが、あそこにはフェンスも標識もなかった」

相手は「話し合いをするためにきてもらった」の一点張りで、どうやら時間稼ぎの様子。いかめしい顔の男が出たり入ったり、どこかとしきりに連絡を取り合っているように見える。

結局、B52撮影の有無が焦点になっていたらしい。私たちはカメラの中のフィルムを提出して現像させた。現地では一枚もシャッターを切っていないことが証明でき、よくやく“釈放”となったのである。

その間およそ7時間。本社デスクとの間で「米軍による理由なき一時拘束は問題。正式に抗議しよう」と合意したものの、記事化は考えなかった。

日米首脳会談の直前である。事態は許しがたいことだが、日米交渉に多少でも悪い影響を与えてはまずかろう。そんな判断も働いた。案の定、翌日琉球民政府に顔を出すと、取材受け入れの窓口である高官が言った。「昨夜は、国務省と国防総省が真っ向から対立したような状況でしたよ」。米側もきっと困惑したに違いない。

                                                  ◇

佐藤・ジョンソン会談は、小笠原の即時返還・沖縄の継続討議を決めて終わった。佐藤首相は「両3年以内に返還時期を決定できる」と胸を張ったが、「70年返還」を掲げて復帰運動を展開してきた沖縄の人々の落胆振りは相当なものだった。

「日本がベトナム戦争に理解を示している限り、沖縄問題が動くことはない」とはき捨てるように言ったのは、社会大衆党の安里積千代党首。沖縄がベトナム戦の出撃拠点であり、巨大な兵器廠と化していた当時としては無理からぬ発言だった。

そうした状況の中で、松岡政保琉球政府主席がもらした言葉は忘れられない。

「いろいろ問題は残っているにせよ、長い長い夜がやっと明け始めた、といった感じです」

                                                  ◇

後年、様々な資料が発表され、沖縄返還交渉の経緯が徐々に明るみに出てきた。

『佐藤栄作日記』『楠田實日記』『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』(若泉敬著)などを読むと、当時“密使”の役割を担って東京とワシントンを頻繁に往復していた若泉氏は、佐藤首相がジョンソン大統領に理解を示し、安全保障上の日本の決意と努力を表明すれば、返還について基本合意ができるとの感触を得たのだろう。首相への報告の後は「両3年内の返還時期合意」取り付けに全力を注ぐことになる。

那覇にいて、発表された共同声明を読んだ私の率直な感想は、「長いわりには双方の主張のすれ違いだな」というところだったか。舞台裏の動きなど知る由もない。

ましてやさまざまな交渉の過程で米側が、沖縄基地の自由使用を確実に保証する取り決めを持ち出したり、「核の有事持ち込み」「B52の寄港承認」などをテーマに掲げたりしたことは、後になって報道で知った。

沖縄の基地内で取材していると、米兵の多くは基地の自由使用を謳歌していた。「キーストーン・オブ・ザ・パシフィック(太平洋の要石)」と彼らが呼ぶ沖縄を手放す気などこれっぽっちもないことに、憤りすら覚えたものだが、米側のこだわりが返還交渉にも反映していたのだろう。

私は、2年後の1969年、愛知外相の訪米に同行して取材した。このときの最大のテーマは返還後の基地の態様、特に核の有無であったが、外相は日本側の安全保障への積極的な姿勢を強調することによって、「核抜き本土並み」を取り付けることに成功した。

この交渉も、1つのヤマであったように思うが、今にして考えれば1967年11月の佐藤・ジョンソン会談が沖縄返還の天王山だったのではなかったか。

首相就任直後沖縄入りし、「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、戦後は終わらない」と宣言した佐藤首相のことである。首脳会談には全精力を傾注したに違いない。

会談を終えた日の日記には「もともと毀誉褒貶を度外視して最善を尽くした。出来栄えは後世史家の評判を持つのみ」と記している。

私にとって政治記者生活の中で「沖縄」は一つの大きなテーマであった。現役にうちは、がむしゃらに、無我夢中で取材をし、記事を書いてきた。それはそれで苦しくも楽しいものであったが、今さまざまな資料に対面すると、目からウロコのような感じがしてきて一層楽しい。

それにしても、身の危険はなかったにせよ、基地周辺で拘束された経験は、ホロ苦い記憶として脳裏に焼き付いている。


さくま・よしお会員 1932年生まれ 55年産経新聞入社 政治部次長 76年フジテレビ取材部長 報道番組部長 日本工業新聞常務 産経新聞専務 福島テレビ副社長を経て 98年から長野放送社長
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