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「核は持ち込まれています」(堀越 作治)2003年6月

“絶対オフレコ”の秘話 後日譚
あれは、政治部の朝刊デスクを終わった翌日の1975年5月17日(土)のことである。約束により前外相の木村俊夫氏を赤坂東急の事務所に訪ねたところ、珍しく秘書にも入ってこないようにいいつけてから「まあ、ちょっと聞いてくださいよ」と切り出した。

そして、いきなり飛び出したのが「佐藤さんはひどいエゴイストですよ」という強烈な親分批判だったのには、びっくりした。まさか、佐藤元首相に最も近い人の口から、こんな文句が出てこようとは、想像もつかなかったからである。

しかし、それよりもっとびっくりする話が、田中前首相との関連で出てきた。わざわざ「絶対オフレコですよ」と二度も三度もだめ押ししてから、木村氏は「実は核は持ち込まれているんですよ」と打ち明けたのだ。

私は、思わず飛び上がった。「核は作らず持たず持ち込ませず」の非核三原則のうち、「持ち込ませず」は怪しいというのが、たしかに世論の大勢になりつつある。とくに前年秋、アメリカでラロック証言(注)が出てからは、その傾向が一段と強まってきた。しかし、政府としては、度重なる野党の追及に対しても「事前協議の申し入れがない以上、持ち込まれていない」と苦しい建前論で逃げているのが現状なのである。

それを、こともあろうに前首相が認めたとは、と思っただけでも胸が高鳴った。記事にした場合の政府のあわてぶりと世論の反響が、目に浮かぶ。

1時間半に及んだ話が終わると、私は出所を明かさないから何とか記事にさせてほしいと頼んだ。すると木村氏は「だから絶対オフレコとお断りしたでしょう。もし漏れたら私の政治生命はおしまいだし、あなたとも絶交です。そして、全面否定の談話を出します」といった。さらに、他言も一切お断りします、とまでいうのである。

仕方なく私は国会記者会館に走って、聞いたばかりの話を細大漏らさずメモ帳に書き留めた。それ以後、木村氏に会うたびに折衝を繰り返したが、虚しい答だけが続く。

こうして、この秘話が曲がりなりにも日の目を見たのは、6年後のことになる。ジャーナリストの端くれとして、こんな重大事を6年も死蔵したことには、深い悔いが残る。

                                                 ◇

ここで、そのメモ帳から要点を再現してみよう。木村氏は、半年前に退陣した田中前首相について「金脈問題はともかく、政治家としての実行力には敬服しています」といい、そのうえで次のような内幕を漏らしたのだ。

「あのラロック証言でクローズアップされた核持ち込みは、実は本当です。また、核を積んだアメリカの艦艇は日本の領海内を通過しています。あの証言をもとに野党から突っ込まれたら、今年の通常国会は大荒れして、政府は立ち往生したかもしれません。

そこで、私はこう考えたのです。だれの目にも明らかな核持ち込みを、さようなことはないとウソをつくのは耐えられないので、これまでの事実関係はともかく、今後は一部の核持ち込みを認めるという交換公文をアメリカと交わそうとしたんですね。

野党の抵抗はあるでしょうが、ウソをつき続けるよりはいいし、いざとなれば私は腹を切る覚悟でした。田中総理にも話したら、よし、やってくれというので、すぐ東郷君(事務次官)に命じてアメリカと折衝させたんです。向こうもOKしたので内々の話し合いの結果、草案ができたんですが、幸か不幸か田中内閣がああいうことになり、本交渉に入らないうちにご破算になってしまったのです。おかげて、私も命拾いをしたわけですが」

                                                   ◇

それから6年後の1981年5月17日、ライシャワー元駐日大使が「核積載艦の日本寄港は21年前から了解ずみ」と語り、日本政府に大変な衝撃を与えた。

政府は早速、ラロック証言の時と同じように否定の談話を出したが、事前協議制が虚構であることは隠しようがない。とくに大使が指摘した「introductionは陸揚げ、貯蔵なので持ち込みになるけれども、もうひとつのtransitは寄港、領海通過だから、持ち込みにならないと了解できている」という点は、きわめて具体的である。

木村氏がいった交換公文は、このtransitのことだなと判断したので、私はすぐ電話を入れ、何としても書きたいとお願いした。

たまたま『朝日ジャーナル』のデスクから、ライシャワー発言に関連して寄稿を求められたところでもあったので、私の観測記事として出すことにし、文中に「木村元外相は口を閉ざしているが」カムフラージュすることで折り合いがついた。苦渋の選択である。

10日ほどたったころ、兵庫県の読者から怒りの手紙をもらった。私が文中に「核持ち込みの日米折衝については6年前に情報を得ていたが、その元政府関係者から“絶対極秘”を約束されたので、今日まで書けなかった」と断っていたのを、「国民の重大事を一記者の判断で秘匿するとは」というのである。一言もない。

すぐ、お詫びの返事を出した。しかし同時に、取材先との信義がわれわれにとっていかに大事であるかを訴えたところ、その点についてはよくわかった旨の返事が来た。

それからさらに5年後の1986年8月、核搭載の米戦艦『ニュージャージー』が佐世保へ入港する騒ぎが起きた時、木村氏はすでに亡くなっていたので、私は夫人に事情を話し、すべてを本紙に出すことにした。8月24日付に載った。

「核搭載米艦船の寄港 日米いったん非公式合意」

「持ち込みは事実 木村元外相生前明かす」というのが、それだ。

この時も外務省は「そんな記録はない」と否定したが、日米安保条約の事前協議が虚構であることを改めて告白したものに他ならない。真実は、木村証言の通りなのである。

それにしても、木村氏はなぜ漏らしたのだろう。恐らく、国民を欺かない努力をした政治家が少なくとも1人はいたことを、だれかに知っておいてもらいたかったにちがいない、と今は思う。

(注)ラロック証言 1974年9月10日、ジーン・R・ラロック米退役海軍少将は米議会で証言し「核兵器を積載する能力のあるすべての船は、核兵器を積んでいる。それらの船が日本などの港に入る時も、核兵器を外すことはない」と述べた。



ほりこし・さくじ会員 1930年生まれ 労働省婦人少年局 アメリカ大使館勤務を経て 56年朝日新聞入社 政治部次長 福岡総局長 東京編集局次長 (財)森林文化協会常務理事などを務める

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