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「水上勉父子再会」を書くまで(岩垂 弘)2007年9月

署名記事を条件に

「ドラマがドラマを生むといわれるけれど、これもそういうことだろうか」

6月24日から7月15日にかけ朝日新聞に4回にわたって連載された『家族 無言の記憶』(筆者は宮地ゆう記者)を読み終えた時、私の脳裏をよぎったのは、そういう感慨であった。

これは、戦没画学生の絵を集めた美術館「無言館」(長野県上田市)の館主、窪島誠一郎氏の父親捜しと、父と出会った後に窪島氏の家族に起きたことを描いたドキュメンタリーである。

私がこの連載をひときわ感慨深く読み続けたのにはわけがあった。というのは、ちょうど30年前に窪島氏の父親捜しと父親との再会を記事にしたからだった。

1977年7月のある日、帰宅すると、妻がいつになくそわそわしている。「何かあったのか」と尋ねると、「話しちゃおうかしら」と、意外な返事。それでもなおしばらく決断がつかないらしく、もじもじしていたが、思い切って言っちゃおうといった風情でこう言った。「窪島さんが捜していたお父さんが見つかったんだって」

窪島さんとは、窪島誠一郎氏。2年ほど前からわが家をたびたび訪れていた、東京・世田谷区成城に住む画廊経営者だった。わが家では、戦後、「抵抗の画家」とか「異端の画家」と評価されるようになった靉光(あいみつ。本名・石村日郎)の妻で、私の義母にあたる石村キヱが、私たちと一緒に暮らしていたからである。私はそれまで窪島氏と話を交わしたことはなかったが、義母らの話から、窪島氏が幼いころ別れた父を捜していたことは知っていた。

「そりゃ良かった。で、見つかった父親はどんな人」と私がたたみかけると、妻は言った。「水上勉さんだって、作家の」

●…書きたい気持ち抑えて

仰天して「これは大ニュースだ」と口走った私に妻は続けた。「窪島さんは私たちに口止めしたの。自分としてはこのことを世間に明らかにしたくない。岩垂さんは新聞記者だから、彼には黙っていてほしい、と」。窪島氏が妻と義母に思わず口をすべらせたのは、長年にわたって父を捜し続け、ついにめぐりあえたことがよほどうれしかったからにちがいない、と私はその時、思った。

私は窪島氏を訪ね、取材させてほしいと頼んだ。が、窪島氏は「相手のあることだし、その人の社会的地位も考えなくてはならないから」と固辞し続けた。やむなく、私は「書かない」を条件に話を聞いた。だから、メモはいっさい取らなかった。窪島氏と別れた後、私は喫茶店に飛び込み、記憶していたことを一気にメモ帳に書き留めた。

窪島氏によると、13、14歳のころ、自分が両親に似ていないことに気づいた。それから20余年にわたって真の父親捜しが続くのだが、1977年6月、ついに父親にたどりつき、父子は30余年ぶりに再会する。その経緯は記事で書いたから、ここでは省くが、話を聞いて私は興奮した。

捜しあてた父親が水上勉氏だったからだけではない。窪島氏が水上作品の熱心な愛読者だったことだ。とりわけ水上氏の代表作『飢餓海峡』に出てくる、北海道の雷電岬の描写に感激した窪島氏は現地を訪ね、その光景に魅せられて詩をつくり、その詩集に『雷電』と名づけたほど。それに、窪島氏の結婚相手は、なんと雷電海岸の出身だった。

そればかりでない。窪島氏の家は、水上氏の邸宅から歩いて5分とかからないところ。互いに父子と知らないまま、父子は同じ町内に住んでいたのである。

なんともドラマチックな物語に、私は「事実は小説よりも奇なり」と思わざるをえなかった。しかし、これが記事にできないのだ。残念極まりなかったが、約束は約束、沈黙するほかなかった。ところが、である。7月末、窪島氏から「書いてもらってもかまわない」と連絡があった。ある新聞が察知して取材を始めたからで、「どうせ書かれるなら、あなたに書いてもらいたい」とのこと。ただし、「水上氏の了解をとってほしい」という。

●…署名記事を条件に

私と中井征勝写真部員は窪島氏とともに、ホテルオークラで仕事中の水上氏を訪ねた。が、水上氏は、頑として報道されることを拒んだ。「いまの妻子にまだ話してない。書かれれば、報道陣が押しかけ、ショックを受けるだろう」「社会面で切り刻まれるのは耐え難い。学芸面か雑誌でたっぷりと書いてもらえるのだったら、まだ我慢できるが」「雑報スタイルで報じられると、ぼくらから売り込んだと思われる。そう思われたくない」。貧乏作家時代、生活苦からその養育を他人に頼らざるをえなかった、まだ幼かった長男。その長男との再会をスキャンダラスに報じられることを恐れているように私には思われた。

私は「著名人のスキャンダルとして取りあげるのではない」と粘ったが、水上氏は「やはりやめてほしい」の一点張り。さらに粘ると、「新聞社の責任者と話したい」という。

そこで、私は伊藤邦男・社会部長と二人で再びホテルにおもむいた。部長からの懇請に水上氏もついに条件付きで掲載をOKしたが、その条件とは「ぼくから新聞社に売り込んだのではない、とわかるような記事にすること。それには、筆者名を明記し、筆者がなぜこの記事を書いたか自ら明らかにすること」というものだった。

かくして、私の原稿は8月4日付の朝日新聞朝刊に載った。「捜しあてた父は水上勉氏」「“孤児の一念”戦災の空白を克服」といった見出しが躍っていた。末尾には「窪島さんは(こんどのことが)人びとに知られることをおそれていたが、私はあえて社会に明らかにする道を選んだ。いまなお、戦争直後に離れ離れになった肉親を捜している人びとに、一つの希望を与えることになるのでは、と思ったからである」との私の署名入り一文がつけられていた。

●…追わなかった「その後」

私はこのニュースの「その後」をあえて追わなかった。「公表されたくない」という水上父子の心情に接し、後追いしない方がいい、と考えたからだ。だから、宮地記者の『家族 無言の記憶』で、窪島氏の実母が自ら命を絶っていたことを初めて知り、衝撃を受けた。なぜ自殺したのか、私にはうかがい知れなかったが、自分がかつて書いたドラマの意外な展開に言葉を失った。

靉光生誕100年を記念する「靉光展」がこの春、毎日新聞社の主催で東京国立近代美術館で開催された。それを記念して劇団文化座が、靉光が主人公の芝居『眼のある風景─夢しぐれ東長崎バイフー寮─』を都内で上演した。原作は窪島氏。その打ち上げの席で、私は久しぶりに窪島氏に会った。互いに「30年前のこと」には触れなかったが、私は、窪島氏と私とを連綿と結ぶ不思議な因縁の糸とも言うべきものの存在を感じていた。

なお、宮地記者の連載につけられた写真は、30年前に水上父子ツーショットを撮った中井征勝・元写真部員の作品である。



いわだれ・ひろし会員 1935年長野県生まれ 58年朝日新聞入社 社会部員 首都部次長 社会部次長編集委員など 95年退社 現在 平和・協同ジャーナリスト基金代表運営委員

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