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元KCIA部長を追って(高島 肇久)2006年3月

“不完全燃焼” 亡命中の金炯旭インタビュー
30年近くも経っているのだが、今なお腑に落ちないことが多い話がある。1977年2月のワシントン。当時ナショナル・プレス・ビル9階のNHKワシントン支局に勤務していた私は、同じ階にある韓国人ジャーナリスト・文明子記者のオフィスをしばしば訪ねて話し込んでいた。

そんなある日、文さんが「韓国中央情報部(KCIA)の金炯旭元部長がニューヨークの郊外に住んでいるらしい。行ってみない?」と言い出した。KCIAと言えば金大中事件があるし、対米議会工作のコリアゲートもある。早速、車を飛ばしてニュージャージー州の高級住宅街に行き、それらしい家を見つけて張り込んだ。

あたりは一面の雪。寒さに震えながら待ち続けた。2時間余。ついに中から中年の韓国人女性が出てきて「夫は今フロリダにいる。連絡先を置いていけば電話させる」という。半信半疑ながら他に方法もなく、メモを残してワシントンに引きあげた。

それから何回かの長距離ドライブの後、ついに6月7日、金炯旭氏本人が玄関先に姿を現し、その2日後にテレビ・インタビューが実現した。
                        
ワシントンの同僚、桑原惺カメラマンと二人で初めて金氏の家に入って度肝を抜かれた。コロニアル風
のどっしりした家の内部は奥行きが深くて見るからに豪華。足を踏み入れると絨毯はフカフカで靴底が埋まってしまう。広々としたリビングルームの一角に三脚を立てて撮影の準備を始めたのだが、カメラの向きを見た金氏が「駄目。駄目。そっちは撮らないで」と言う。そこには貴重な骨董品とおぼしき青磁、白磁の壺や皿がぎっしりと並ぶ大きな飾り棚があった。周囲を見回すと、一見して高価とわかる品々が部屋の至る所にある。ドアの取っ手は金色に光り、家具はフランスのアンティーク風でどれも見事だ。ようやく無難な場所が見つかり撮影が始まった。

日本のマスコミはまだ誰もこの人物に会っていない。真相を肉声で聞ければ大特ダネだ。と気負いこんで質問を始めたのだが、流暢な日本語で最初に返ってきた答えに出鼻をくじかれた。

「金大中事件?謎なんてないでしょう。文明子記者が書いたことは全部本当。付け加えることは何もない」

文さんはすでにその年の2月、金炯旭氏との長時間のインタビューをもとに事件の詳しい経緯を記事にまとめ、金氏自身が書いた事件関係者の名簿を付けて共同通信から世界に配信していた。それを追認するだけではニュースにならない。

あわてて金大中事件と当時の朴正熙大統領やKCIAとの関わりを中心に質問を繰り返し、ようやく「朴大統領が指示したかどうかは分からないが、KCIAの李厚洛部長が部下に命令したことは間違いない。金大中が殺されなかったのは、アメリカと日本が圧力をかけたことと、日本の飛行機が彼を運ぶ船の上を旋回して牽制したからだ。奴らがなぜこんな馬鹿なことをしたのか僕には分からん。想像に任せる」という答えを引き出した。とは言うものの内容に新味はなく、拍子抜けの感は免れない。

その代わりだろうか。金元部長は映像面では大変なサービス精神を発揮してくれた。自宅のトレーニング・マシーンで衰えを見せない体力をアピールし、書斎では間近に迫った議会証言に向けての準備風景を撮影させる。果ては愛犬を連れて近所の公園に行き、長時間のランニング。桑原カメラマンと私はエネルギッシュな金元部長に振り回されながら「この人は本当に政治亡命者だろうか」と顔を見合わせたほどだった。

その後3回この豪邸に通ってインタビューを行い、時には夫人の手料理をご馳走になるくらい親しい関係を築いたが、残念ながら世間を驚かすような話を引き出すことは出来なかった。当時しきりに取り沙汰された日韓間の政治資金の流れについては何回も聞き質したのだが、いつも「今は無理だが、いずれ必ず話す」という約束だけで終わってしまった。
                       
その後、 金元部長は日本の他のマスコミにも登場するようになって私との縁は次第に間遠になったが、 しばらくする内に妙な話が聞こえてきた。金元部長がヨーロッパからニューヨークの空港に着いたところで逮捕されたというのだ。 何でもドルの札束を大量に身体に巻き付けて、 よちよち歩きで税関を通り抜けようとしたため御用になってしまったらしい。

金元部長の贅沢な暮らしのもとは在任中に隠した2千万ドルの秘密資金だという噂は聞いていたが、空港での逮捕話を聞いた時には、「なるほど。こうやって金を運び込んでいたのか。それにしても、がっしりした体躯で“猪”とか“熊”とあだ名されるほどの金元部長が、何万ドルもの紙幣を身体に隠してぎこちなく歩く姿はどんなだっただろう」と想像したものだ。

その後何年もして耳にした次の情報は、金元部長がヨーロッパに金を取りに出かけたまま行方不明になり、殺されたかもしれないというものであった。真偽のほどは長い間分からなかったが、1999年になって文明子さんが「金元部長はソウルに連れて行かれ、殺された」という情報を伝え、さらに2005年5月にはKCIAの生まれ変わりである韓国国家情報院の「過去事件の真相究明委員会」が「金炯旭氏は79年9月頃パリにおびき出され、銃殺された。これを指示したのは当時の金戴圭中央情報部長であった」という調査結果を公表した。

この発表は当時のKCIAが朴大統領にとって目障りになった金元部長を抹殺したことを韓国の国家機関がはじめて認めたもので、大きな反響を呼んだ。このニュースは日本でも新聞の国際面で伝えられたが、その記事を目にして私は「やはり」と思う一方、もう一度金元部長に会って、いつか必ず話すと言っていた日韓間の秘密政治資金の流れを聞きたかったし、何よりも韓国の現代史の謎の部分についてもっといろいろ尋ねたかった、という口惜しい思いに駆られた。また、一時は朴大統領の側近中の側近と言われ、KCIA部長として思うままに権力をふるい、莫大な額の蓄財もした人物が、結局は国を追われて最後は殺されてしまうという冷酷な結末に、当時の韓国社会の闇の深さを思い知らされた。

それにしても金元部長はなぜ、あの時にNHKのテレビ・インタビューに応じる気になったのだろう。文さんは、金炯旭氏はできれば朴大統領とよりを戻して、韓国への復帰を果たしたかったらしいと推理しているが、その一助になるとでも考えたのだろうか。今となっては知るよしもないが、最近、韓国から過去の真相究明の話がたびたび伝えられるようになったため、改めて当時の記憶がよみがえり、不完全燃焼を悔やむ気持ちを覚えることが多くなっている。

金炯旭インタビューではもう一つ忘れられない出来事がある。1977年6月22日。4回目のインタビューを行うため、前夜、ワシントンから支局の車でニュージャージー州フォートリーという町まで行き、街道沿いのモーテルで数時間の仮眠を取った時のことだ。玄関前で明るいし車の通りも多いからと、撮影機材や16㍉フィルムをトランクに残したまま部屋に入ったのがいけなかった。早朝、車の所に行くとトランクの鍵の部分にポッカリと小さな穴があいている。人を呼ぶと「やられたね」の一言。木製の三脚だけを残して全ての機材が消えていた。

それからが大変だった。ニューヨークの同僚に代替機材を頼み、金元部長に「遅れる」と連絡。町の警察署に盗難届を出す一方、公衆電話から東京に盗難の報告を入れたのだが、その電話を受けた東京のカメラ機材担当デスクの言葉が秀逸であった。

「なにっ!盗まれた? フィルムは撮影済みか? インタビューはこれから? いやぁ。良かった。良かった。機材のことは心配しなくて良いから、好い話をとれよ」

盗まれたフィルムが取材済みかどうかを真っ先に心配してくれるデスクの言葉くらい、事件で動転する私達を落ち着かせてくれるものはなかった。古き良き時代の話で終わらせたくない思い出である。 

たかしま・はつひさ会員 1940年生まれ 63年NHK入局 ワシントン特派員 ロンドン支局長 国際部長 90年「ニュース21」の編集長兼アンカーマン その後 報道局長解説委員長 特別主幹等を歴任 00年国連広報センター所長就任 02年から3年間外務報道官を務め 現在外務省参与
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