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「河野語録」の秘密(畠中 茂男)2005年10月

洒脱な駄じゃれで社会を風刺
「謙三さん」と政治記者からスポーツ記者、支局通信部記者に至るまで親しまれた元参議院議長、河野謙三さん。昭和46(1971)年7月、参院改革をひっさげて、9年間参院を支配していた “重宗王国”に挑戦、自民党造反組と全野党の支持による“奇跡の大逆転”で議長に当選した。この憲政史上まれにみるドラマの内幕の全容は、すべて解明されており、『証言 河野謙三』(毎日新聞社刊)や『議長一代』(朝日新聞社刊)にくわしい。

ただ一つ、名議長、謙三さんがお得意とした「河野語録」の秘密だけが残されていたが、23回忌までに突きとめることができた。

71年7月、歴史が動き始めた。参院議長選の直前、日本の頭越しに米大統領の訪中が発表されるニクソン・ショックが起きた。

議長選の投票が始まった17日午前零時すぎ、私は政治部デスクに「河野敗れる」の予定稿を送った。誰もがそう思った。その直後、ちょっと待てよ、造反派票がまとまって謙三さんが勝つかもとの第六感に襲われた。青柳デスクを呼び出し、大阪弁で言った。

「青ちゃん、河野当選の原稿を送りますわ」。「エエッ、ハタやん、ホンマに大丈夫?」。「ホンマや。リードは『参院に新しい風が吹いた』でいきまっせ」。

零時35分。結果は、河野氏128票、木内四郎氏118票。10票で謙三さんが勝った。今度はコウノ・ショックや。エライコッチャ。

河野議長の登場は、参院改革を推進させるとともに、佐藤内閣にパンチをくらわせ、ポスト佐藤争いに激動をもたらした。

河野語録の第一号は、「私は野党と結託したんじゃない。私は世論と結託したのだ」だった。次に出たのが、語録の神髄ともいうべき「七・三の構え」だった。

「昔、芸者が人力車に乗る時は、帯をつぶさないために、はす(ななめ)に座ったもんだよ。少数意見はつぶさん。これですよ」

芸者の七・三の姿勢を巧みに少数派尊重の議会運営に例えたオリジナル語録は、世間をアッと言わせた。

国会がストップ、動かなくなると、ウフフッと含み笑いをしながら「こりゃ、ボタ餅の綱渡りだねェ。ニッチもサッチも動かない」と記者団を爆笑させた。以来、こんな軽妙洒脱な駄じゃれ、軽口が当意即妙に飛び出した。

謙三さんがゴルフをすると、キャディーさんが笑いこけておなかをこわすとか。私があっちこっちと“悪戦苦闘”して回っていると、「ウフフッ、今日は“お医者の車”だね。悪い所に寄っているョ」。

三宅久之さん(現政治評論家)がナイスショットを続けると、「キュウさん、“観光バス”だね。いい所、いい所へ寄っている。ウフフッ」。

私が乱暴にピン寄せしようとすると、「ハタやん、“女性のスカート” をめくるように、静かーにね……。ウフフッ」。

謙三さんが昭和58年10月16日、82歳で亡くなった後、私が語録を総ざらえしたところ、何と205点(政治75、歴代総理評7、教育・スポーツ41、人生82)にも達して驚いた。漏れたものもかなりあり、合わせるとどのくらいになるかは見当もつかない。

政界や教育、スポーツ界への強烈な批判と警世、庶民生活と豊富な人生経験から生み出した人生への切言と戒めは、人々の共感を呼んだ。広い分野にわたる直截的な鋭さは、今も生き生きと光っている。

「絶対だなんて言うな」「親しまれる参議院に」「参院は党議に拘束されるな」「勝手に土俵を広げるな」「言葉こそ政治の生命だ」は今の政界にも通じる。

北方領土問題では「いつまで山手線に乗って同じ所をグルグル回っているのか。そろそろ中央線なり、東海道線に乗り換えようや」と当時のソ連大使に迫った。ノーベル平和賞のワンガリ・マータイさんの「もったいない運動」が広がっているが、河野語録は40年前から「もったいない精神を再生しよう」と説いてきた。

それにしても、私たちを抱腹絶倒させたユーモアやジョークは、一体どこから生まれたのだろうか。早大生の頃、兄の一郎氏(自民党の領袖、元農相、建設相)とよく寄席通いをして仕入れたというのが通説だった。

しかし、実は、終戦間際に神奈川県の山村(現中井町)に疎開した際、茶目っ気十分の謙三さんが夜になると村の人たちと花札遊びをした経験が大きかったことが分かった。「昔から語り伝えられた村民たちの駄じゃれや軽口が、おやじの頭にたたき込まれたようです」と長男、鐵雄氏が証言する。庶民生活から生まれた生粋のしゃれがポンポン飛び出すわけだ。

これに加えて、自身の独習と習熟が積み重ねられた。第一の秘密が黒表紙の参議院手帳だ。昭和45年以来、毎年のように小さな字でビッシリ書き加えられた、多い時は77点にも上った。古今東西の政治家や文豪の言葉も網羅された。電車や車の中で、ブツブツつぶやきながら口慣らしをして自家薬籠中のものとしたのかと思うと、ほほ笑ましくなる。

第二の秘密が、駄じゃれのネタ仕込み本がこのほど、本棚から見つかった。謙三さんが懸命に隠しおおせた「洒落百集」だった。「ぼた餅の綱渡り」や「ふんどしの川流れ」もここから引用された。私も初めて見たが、「蝗の小便」「蛙の小便」「狸の金玉」などいささか品の落ちるものもあり、謙三さんも閉口したのかあまり使われていない。

謙三さんは、サラリーマンとして経営感覚と営業活動を身につけ、政治がキライでスポーツを愛し、カネにはケチン坊で清廉潔癖、参院議長は二期でアッサリとやめ、いつもニコニコ顔で涙もろく、花と奥方をこよなく愛し、いざという時は河野家の血にそむかず反骨精神を貫いた。その根っこには、庶民生活と庶民の心情が波打っており、語録もこの中から生まれた。今時、このような異色のスゴイ政治家がいるだろうか。

1年後、私は広島県呉支局長へ転勤した。議長室へあいさつに行くと、謙三さんは突然顔色を変えて電話器を取り上げ、「毎日の社長を呼んでくれっ!」。左遷されたと思ったのかもしれない。私は「やめてください。私の希望なんです。あのドラマを見て、無性に地方で仕事をやりたくなったのです」と止めた。

「そうか。分かった。また東京へ帰っておいで」と謙三さんは、色紙に河野語録を書いてくれた。

『自らに克つことを知る者は、負けることを知らない 謙三』

そうだ。あの議長選ドラマの土壇場で、あらゆる圧力や妨害、説得にも屈せず、「世論の支持を受けた以上は、私はやめない!」とポロポロ涙を流しながら、初心を貫いたのは、マラソンのように、自らの心に克ったからなのだ。人が歴史や時代を作るのだ。

当時、私は42歳。関西の三カ所の支局長として思う存分やらせてもらった。畑違いの大阪毎日ホールの経営を立て直した。10年後、東京本社に戻った。編集局調査部長として「情報サービスセンター」を立ち上げ、収益路線に乗せるなど私なりに“愛社精神”を貫き通すことができたと、自負している。

これも、河野語録からもらった勇気と喜びのおかげである。



はたなか・しげお 1930年生まれ 53年毎日新聞大阪本社入社 福井 神戸支局を経て 東京本社政治部 呉支局長 松江支局長 大阪・毎日ホール代表取締役支配人 和歌山支局長 東京本社編集局調査部長プロモーション本部次長 85年退社後 アジア調査会専務理事 現理事

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