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アメリカ大統領選(近藤健)2004年12月

「ジミー・フー」から時を経て
現役特派員時代、アメリカ大統領選挙を1972、76、84年と3回、取材する機会があった。共和、民主のどちらの候補が勝つか、私の経験的非科学的予想方法は「背丈の高い方が勝つ」というものである。今年の大統領選挙では背の低い方が勝ってしまい、私は信用を失墜してしまったが、大接戦のこの選挙を観察しながら、76年選挙を思い出していた。

というのは、76年選挙は大統領職と大統領となる人の人柄との関係について考えさせられたからである。

この選挙は、共和党ジェラルド・フォード大統領、民主党ジミー・カーター元ジョージア州知事の争いであった。ジョージア州の田舎(失礼!)知事を1期4年間務めただけで、連邦議会・行政府の経験ゼロの「ジミーって、だれ?(Jimmy who?)」とからかわれた無名の人物が、大統領はもとより民主党の大統領候補になれるとは、選挙運動が始まった当初は、私には想像もできなかった。

ところが、最初の予備選挙であるニューハンプシャー州予備選で、カーターは得票率は30%ながら、リベラル派の旗手として立候補したモリス・ユードル下院議員(アリゾナ州)を抑えて(24%)、「予想外」の第一位となったことで、にわかにメディアの注目を浴びた。タイムとニューズウイーク両誌がカヴァー・ストーリーに取り上げたのをはじめ、一斉に「ジミー・フー」の解剖がはじまり、メディアとくにテレビに乗って知名度をぐんと高めていった。

カーターは選挙運動で「私は決してウソをつかない。もし私があなた方の信頼を裏切ると思うなら、私に投票しないでほしい」「私は正しいことを行うように神にお願いしている」「ワシントン政治の汚れに染まってない私こそ、信頼回復に適している」と訴え続けた。

最初は奇異に、何か作り物らしく感じたものである。だが、その人柄の誠実さと清潔さは本物であって、ウォーターゲイト事件後のアメリカで「政治への信頼の回復」の説法は、当時のアメリカ人の琴線に触れたのであった。

誠実と正直は、フォードの売り物でもあった。73年2月ニクソン政権のアグニュー副大統領が汚職で辞任し、後任に下院共和党のリーダーで穏健保守の敵の少ないフォードが後任に任命された。そして、74年8月ニクソン大統領がウォーターゲイト事件で弾劾必至となって辞任したあと大統領に昇格したので、なりたくてなったのではない「偶然の大統領」といわれた。だが、ニクソンとは対照的なその実直で誠実な人柄は、癒しの効果をもたらし、就任当初の人気は高かった。

それが就任1カ月半後にニクソンが刑事訴追されないようにと大統領権限で特赦したため、支持率は急速に低下していった。彼は国民をウォーターゲイト事件の悪夢から解き放つために特赦の決断をしたと語ったが、政治的判断を誤ったとしても、それは本音であった。

世論調査ではカーターがずっと優勢で、投票日、このときも今年と同じ11月2日だったが、その10日前には10ポイント差をフォードにつけていた。ところが2日前には47%対46%でフォード有利とでた。

私はすでにカーター勝利の予定稿を書いておいていた。支局の仲間に、フォード勝利の予定稿も準備してはといわれたが、「カーター勝利間違いなし」と頑固に拒否したものである(いまから思えば若気の至りだったが)。

カーターの方が少しばかり背が高かったからではない。私は取材中に感得したカーターの「勢い」を信じていた。今年も、ケリーの「勢い」を信じていたのだが。結果は、一般投票で51%対48%、選挙人票で29 7票対240票のカーター勝利であった。

大統領就任後、カーター人気はいまひとつ上がらなかった。それは政策の誤りからというよりも、彼の言動が国民の抱く大統領のイメージに そぐわなかったことが大きい。  カーターは、大統領になっても、「ジミー」の愛称を使うことに固執した。自分で衣装バッグを肩に担いでホワイトハウスを出入りし、大統領専用ヨットを売ってしまった。第二次石油ショック下の省エネといってセーターを着て執務室に座った。ニクソンや現ブッシュ大統領とはことなって、フォードと同様、記者会見を定期的に開いて質問に誠実に答え、開かれた政治を目指した。選挙中、反エスタブリッシュメントを掲げた彼の、権力者ぶらない庶民の一人としての大統領を目指した誠実な行動であった。

それは、しかし、国民が元首としての大統領職に期待する威厳、力強さ、カリスマ性を欠くものだった。彼は、アメリカ人が短気で過剰に反共的で、アメリカ社会は "malaise" (病気の前の不快な気分)の状況にあると表現して批判を浴びたが、これも率直すぎた。国民の多くは、大統領から、たとえそれが正しいとしても悲観的な認識でなく、楽観的な見通しを求めるのである。底抜けに楽観的なレーガン大統領とは好対照であった。

大統領には、ときには黒を白といいくるめ、誤りを頑として認めない「腕力」が必要なのか。誠実、正直は政治家にはマイナスなのか。ブッシュ再選であらためて思うのである。何ともそれこそ不快感が残る。

80年選挙で敗れたカーター大統領は、その後現在まで、国内では貧困世帯の住宅建設に自ら金づちをとって参加したり、海外では、ニカラグア、ハイチ、北朝鮮など火種のある国際問題の調停役として活躍、尊敬と人気を得ている。

50年代から70年代にかけて活躍したニューヨーク・タイムズ紙の名記者故ジェームズ・レストンはカーターを「最良の元大統領、元老政治家(elder-statesman)」と評した。

投票日の翌日11月3日正午すぎ、ホワイトハウス記者会見室にフォード大統領がベティ夫人をともなってあらわれた。選挙演説でのどを痛めたからと、ささやくような声で「カーター氏に送った祝電を我が家のスポークスパースン、ベティに読んでもらう」といった。大統領は、なんの弁明も悔しさも、口にも表情にも出さなかった。その後もああすれば勝てたというようなことは一切言わなかった。
 
祝電を読み終わったあと、夫人とともに記者たちの間に入ってきた大統領は「キミに会えてうれしかった」と、記者一人ひとりと握手して回った。私も、大統領の大きな力強い手を握った。誠実な人柄が伝わるような温かい手だった。

選挙で火花を散らしたフォードとカーターは、大統領を辞めたあと、相互信頼の友人関係を築いたという。(文中敬称略)

こんどう・けん 1933年生まれ 57年毎日新聞入社 サイゴン ニューヨーク各特派員 外信部長 ワシントン支局長 論説委員などを経て英文毎日局長 88年退社後 国際基督教大学教授 愛知学院大学教授を務める 著書に『アメリカを見る眼』『もうひとつの日米関係』『日米摩擦の謎を解く』(編著)など
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