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砂漠の蜃気楼(高木規矩郎)2004年11月

PLO議長ヤセル・アラファトを追って
ホスニ・ムバラク(エジプト大統領)、イツハク・シャミル(イスラエル元首相)、イツハク・ラビン(元国防相)、シモン・ペレス(元外相)、ヨルダンのフセイン国王など読売時代に単独会見をした中東政治家である。会見とは何だったのか。政治理念や戦略といった目先のテーマだけではない。人間を知り、魅力の根源を探る。ジャーナリストとしての体験、人脈を総動員し、些細なチャンスにも食いついて相手の懐に飛び込む夢のプロジェクトともいえまいか。 

1970年代半ば、ベイルートに赴任して大使館占拠、航空機ハイジャックなど国際テロを繰り返していた日本赤軍の最高幹部重信房子との会見工作をしていたとき、PLO人脈にたどりつき、ヤセル・アラファトの存在が大きく浮かび上がってきた。単独会見をしたいというのは、そのときから願望になったが、アラファトは砂漠の蜃気楼のような存在であった。 

中東特派員20年の間にアラファトとは、共同記者会見で数度会ったほか、4度の単独会見を行った。会うたびに顔や全体の印象が変わっていた。最後の単独会見は89年9月。雰囲気は大きく変わっていた。インティファーダ(住民蜂起)でパレスチナ問題が激震を起こし、アラファトの動きが世界的に注目されていた。

訪日を前に“亡命政権”があったチュニスには会見のチャンスを狙って、日本のマスコミ各社が中東記者を送り込んでいた。相手にこちらの熱意を何とか印象づけなければならない。そこでカメラマンとして妻を連れて行った。ダマスカスからチュニスに亡命していたPFLP(パレスチナ解放人民戦線)の友人を探し出して、アラファトの側近の一人としてスポークスマンの任務を帯びていたバッサム・シャリフに接近、会見工作を始めた。

バッサムから食事に誘われた。各社の記者が全員集まっていた。別れ際に妻に小さな声で「あなたも一緒にアラファトとの会見に顔を出したらどうか」といったバッサムの一言に勇気付けられた。アラファトの手に渡ることを願って、読売から出版することになっていた「パレスチナの蜂起」の英訳をホテルにこもって続けた。

チュニスに入ってからすでに10日が経過していた。アラファトはサナー(北イエメン)、アンマン(ヨルダン)、いやバグダッドに行ったなどと情報が錯綜していた。

9月29日夜、「情報局にきてくれ」との待ちに待った電話。用意された車に妻も一緒に車に乗り込み、夜のチュニスの住宅街で先行車を追跡。ごく普通の民家のようなたたずまいだった。妻は口紅までチェックされ、カメラはフラッシュを空押しさせられた。でも行動は厳重な警備陣にも知らされていると見えて、同行は許された。こちらの思惑がどこまで効果を生んだのかわからない。はじめは通訳を通してアラビア語で話していたが、アラファトは英語に切り替え、数十分にわたってインティファーダの現状を語った。

妻は一眼レフで会見中の写真を撮影したところ、部屋にいた若い女性から「音をさせないで」と注意された。会見が終わるとアラファトは妻の肩に手を置き、「パレスチナ国家の発足で、私はいずれエルサレムの地をこの足で踏む。そのときは私と一緒にエルサレムへ」とにこやかに言った。
このときのアラファトはまさに政治の町チュニスの顔だった。

初めて単独でアラファトと会ったのは、75年秋、内戦の緊迫した空気が強まるベイルートのPLO本部だった。一日待機させられ、部屋に通されたときは午前3時を過ぎていた。国連総会でPLOが国際的認知を受けたあとだけにアラファトは活気にあふれていた。

2度目は83年夏。チュニス郊外のホテルに仮住まいの執務室だった。一年前には、イスラエル軍がレバノンに侵攻し、PLOは西ベイルートの拠点放棄を余儀なくなれ、アラファトもチュニスに移っていた。インタビュー直後には、レバノン北部のトリポリでの反対派への説得工作に失敗して、仏艦隊護衛の下で北イエメンに退去した。外交活動も手詰まりの失意の日々だった。インタビューでは側近も伴わず、顔には生彩がなかった。

3度目は87年秋、アンマンでのアラブ首脳会議の後だった。会議ではパレスチナ問題は、イラン・イラク戦争に押され主要テーマにすらならなかった。口にこそ出さなかったが、アラファトはアラブの首脳の冷たさに失望を隠さなかった。

その直後に始まったインティファーダは、占領地のパレスチナ住民の失望と怒りが爆発したものである。住民蜂起はアラファト外交の始動のきっかけとなった。パレスチナ国家の独立宣言、米政府との対話の開始、さらにカサブランカでのアラブ首脳会議では、イスラエル軍の占領地からの撤退、イスラエルの生存権の承認などをうたった国連安保理決議242号を受け入れた。国際会議の後ろ盾で中東和平を促進するというシナリオが、アラブ全体の統一戦略となったのである。

チュニスは中東和平をめぐる外交の中心舞台となった。アラファトは再び国際政治の主役だった。
4度目の単独会見ではその顔にはゲリラ闘士の生命力が蘇っていた。珍しく冗談も飛び出して、精神的なゆとりも感じられた。

だがインティファーダに触発された華麗なアラファト外交は短命だった。チュニスで会って1年もたたないうちに、イラク軍が突然クウェートに侵攻、あらたな湾岸危機が始まった。世界の関心は再びパレスチナから湾岸へと大きく揺れ動いた。

アラファトは政治生命を賭けて、危機収拾に奔走し、PLOのイニシアチブの奪回を図っていた。何度となく死線を乗り越えてきた“中東の不死鳥”の真骨頂が問われていた。

93年9月にもう1度アラファトとの会見工作をしたことがある。当時ニューヨークに編集委員として赴任していたのだが、たまたま中部イタリアを取材で訪れた。東京本社から電話が入り、パレスチナとイスラエルが和平に合意したので、チュニスに入ってくれという。予定を変更してチュニスに入ったが、アラファトはオフィスの玄関に姿を現し、取材陣に手を振りながら車で立ち去ってしまった。

仲介役を果たしたノルウェーのホルスト外相が真夜中のホテル・ロビーにスーツケースに入れて持ち込んだアラファトの同意文書に百人近い報道陣が殺到。もみくちゃにされながらアラファトの署名の確認をしたときのほろ苦い思い出だけが残った。

翌日ワシントンに直行してイスラエル首相のラビンと歴史的な握手をするアラファトを追った。

栄光の舞台に立つアラファトの光景は、このときが最後である。オスロ合意の一方の主役ラビンが暗殺され、やがて第二次インティファーダが始まった。オスロの歓喜はつかの間の幻影だった。パレスチナとイスラエルの憎しみが増大する中で、奇跡的に生き延びているアラファトは、再び中東の激流に放り出され孤独の戦いを強いられている。   


たかぎ・きくろう 1941年生まれ 66年読売新聞入社 ベイルート ローマ特派員 カイロ支局長 ニューヨーク駐在編集委員 20世紀企画室長を経て2001年退社 現在 早稲田大学理工学総研客員教授 イスラム科学研究所客員研究員 フェリス女学院大学 神奈川県立外語短大非常勤講師

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