ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


書いた話/書かなかった話 の記事一覧に戻る

流砂の後を追って(佐藤 信行)2004年8月

プラハとワシントンの間
政治、経済、社会をめぐるあらゆる情勢は一定段階に達すると、その進展方向に人知ではいかんともしがたい力学が働くものだと思わざるを得ない。私は勝手に「流砂の力学」と名付けている。主に国際畑での36年間の経験で何回もこの力学の威力を見せつけられた。自然現象にたとえれば、波に洗われる流砂のように、いったん展開し始めた情勢は行き着くところまで行かない限りとどまることはない。大統領などの要人の辞任・辞職、政権の崩壊や交代、選挙の行方、経済ではもちろんバブルの崩壊などにこの力学が働いている。

私が直接現地で取材した事件では、チェコ事件(民主化運動の「プラハの春」を押しつぶしたソ連・東欧軍の侵入)、カーター大統領の当選、イラン革命、フィリピン革命、湾岸戦争、クリントン大統領の当選など、いずれもその見通しを誤らずに済んだが、それもそこに流砂の力学が働いているのを感じたからだった。

特派員として最初にぶち当たった大事件であった1968年のチェコ事件では、ソ連・チェコスロバキア国境の町チェルナ・ナド・ティソウでの両国首脳会談(7月29日~8月1日)、次いでソ連・東欧首脳とのスロバキア・ブラチスラバでの会議(8月3日)で両者の和解が演出されたにもかかわらず、会議からわずか17日後にはソ連・東欧五カ国軍が侵入、その後ソ連軍の一部は21年余後の89年12月、市民革命でチェコスロバキア共産党政権が崩壊するまで居座ったのであった。

私はブラチスラバでの和解劇後も、ソ連の軍事介入は避けられない、しかもその時点は迫っているとみた。チェコスロバキア共産党改革派指導部が翌9月9日に臨時党大会を開き、中央委員会を改造、保守派を追放して民主化路線を定着させようとしていたからである。

プラハの市内で、あちこちに人の輪を作り、過去の共産党独裁の悪行を糾弾し、国の未来を熱心に語り合う上気した市民の群れが、ドプチェク第一書記率いる改革派指導部を支えていた。共産党機関誌ルデ・プラボをはじめとする報道機関も「言論の自由」を得て、生き生きと政治と経済の民主化と自由化を論じていた。

しかしソ連はそもそも、東西冷戦下で衛星国とみなすチェコスロバキアに独自路線を認めるわけにはいかなかった。ドプチェク第一書記らの改革派もいったん国民に約束した民主化・自由化を後退させることは国民の信頼を裏切ることになる。両者に妥協の余地はあり得なかったのである。

ソ連・東欧軍侵入の第一報を聞いてドプチェク第一書記は「ひどいことだ。こんなことが起ころうとは」と言って絶句したというが、情勢展開の力学からすれば、起こるべくして起きた悲劇であった。しかしこれはまた、どれだけ長くかかろうとも、免れ得ないソ連崩壊の予兆にも思われた。ソ連軍侵入後、プラハ市内で中年の女性に「ソ連が変わる日が来ると思うか」と尋ねたところ「五十年くらいかかるのでは…」とつぶやいたのが、いまでも脳裏に残っている。

私はソ連占領下のプラハで71年3月までの2年半を、東欧全域をカバーする東欧特派員として過ごした。帰国後間もなく、ある雑誌に「ソ連はチェコ事件で〝ソ連帝国〟の維持に一応成功したかに見える。しかし巨視的に見れば、やはりこの〝帝国〟のおそらくはきわめて長い崩壊過程の始まりを告げたものといえるのではないだろうか」と書いた。結局この過程が終着地にたどりついたのは、チェコ事件から50年を経ずして22年目のことであった。

1974年ウォーターゲート事件でニクソン大統領が辞任した後、フォード大統領が昇格、間もなくニクソン大統領を特赦した。このことが後々まで尾を引くように思えた。民心は共和党を離れ、76年の大統領選では南部ジョージア州のピーナツ農場主カーター氏当選への流れが勢いを増すことになったのである。

79年のイラン革命と86年のフィリピン革命では、それこそ王朝の衰退に伴う革命の力学が働いていた。テルアビブから出張取材したイラン革命では、連日のように反政府デモが展開され、特に若者たちはもちろん、スーク(市場)の商人たちまでもが反国王に結集して店を閉ざしている光景を見れば、結末は容易に予測できた。

外信部デスクから派遣されたフィリピン革命でも、私はマルコス大統領の一方的〝当選宣言〟に、政権崩壊のにおいをかぎとった。他社がマルコス政権継続と判断して応援要員を引き揚げるなかで、私は社に出張期間を延長してもらい、逆に応援要員を要請した。大団円は近いと確信したからであった。2月15日の大統領〝当選〟からわずか一週間後の22日、エンリレ国防相とラモス参謀総長代行が大統領に反旗を翻した。マルコス大統領はその四日後に米機でハワイへと去り、アキノ政権が誕生した。2月11日に私がマニラ入りしてから帰国するまで、わずか十八日間の出来事であった。

ワシントン支局長だった湾岸戦争では、フセイン政権がクウェート占領を解かない限り、妥協があり得るはずはなく、米国の開戦は時間の問題であった。しかしこの戦争で勝利を収め、90%の支持率を勝ちえたブッシュ大統領がその約1年半後の大統領選では南部小州の無名の知事に敗北するとはだれが予想できたであろうか。大統領選挙を2カ月余後に控えた92年8月、私は中央公論(10月号)に、この選挙について「政権交代の機は熟した」と題して、クリントン氏の当選を予想する記事を書いた。

なぜこんな大胆な予測に踏み切ったかといえば、一つにはケネディ大統領の当選(60年)からこの年は33年目に当たっていたからである。というのも、米国の政治には公共の利益重視と私益優先の政治が30年周期で繰り返すという学説があり、この説に従えば、この年はまさにこの歴史的潮流の分かれ目に当たっていた。事実、米国での暮らしを通しても、衰退する中間層や少数派、女性の利益を重視する民主党が時代のエトス(精神)をつかんでいるように私には思われたのである。

前回の大統領選が行われた2000年には、まだこの時代精神は衰えていないはずだったが、米国特有の間接選挙制度によって、一般得票で53万票以上の差をつけながら民主党のゴア候補は現ブッシュ大統領に敗れ去ったのであった。私が今年の大統領選で注目するのも「アメリカ帝国」のこのエトスのありようである。

●さとう・のぶゆき 1937年生まれ61年共同通信入社 ロンドン 東欧(在プラハ) ワシントン特派員 テルアビブ支局長を経て 外信部長 整理部長 ワシントン支局長 編集委員室長を歴任 97年退社 同年から2003年まで和歌山大学教授 現在 和洋女子大学非常勤講師 74年度ボーン国際記者賞受賞
ページのTOPへ