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まぼろしの「松野幹事長」   (羽原 清雅)2005年7月

派閥抗争のはざまで
政治記者として、混迷の続いた「三角大福中」の時代の大半を自民党担当として、つぶさに取材できたことは恵まれていた。派閥の入閣拒否など、思いもしない局面の変化に方向が見定められず、原稿用紙を前に立ち往生したことも、いまは懐かしい。

「佐藤後」をめぐって、福田赳夫に争い勝った田中角栄政権は1974年の参院選挙で金権批判を浴びて退陣、椎名裁定により福田、大平正芳を期待する声をよそに「神に祈る気持ち」で三木武夫政権が登場、田中が76年夏にロッキード事件で逮捕されながらも影響力を誇示するなかで、三木を取り巻く政治環境は日増しに悪化していった。

田中の保釈を待つかのように、「三木おろし」の挙党体制確立協議会(挙党協)が衆参403人のうちの3分の2を集めて発足し、三木退陣を迫った。76年末には衆院議員の任期切れが近づいており、挙党協は臨時党大会での三木退陣を狙い、三木側は衆院解散による延命策を模索した。

双方の思惑の中で9月11日、臨時国会16日召集という合意ができ、14日には党人事・閣僚の辞任を取り付けた。だが、幹事長人事をめぐる疑心暗鬼で三役決定、組閣は15日に持ち越すことになった。

                                                ● ○●○●○

その14日夜、いや15日午前1時ころ、私はいつものように芝白金の松野頼三邸にいた。常連の記者たちは帰り、たまたま残ったのはひとり。松野には日ごろにないような緊張感があった。そこに、深夜の電話が鳴った。

「わかりました」「それで、海部は?」「やりましょう」──その内容から三木首相からとわかった。「幹事長ですね」「ウン」。飛び出して、近くの公衆電話に走り、政治部に電話で告げた。朝刊は大見出しだ、などと思い、締め切り間際の有楽町の社に急いだ。

すでに最終版の大刷りが上がっていた。「内閣改造、今夕に持ち越し/幹事長人事が難航」と一面トップの見出しはいいが、4段見出しで2行「首相は松野氏を考慮、灘尾氏で妥協の線も」と逃げている。キャップの柴隆治さんに「なんだ、これは!」と食ってかかった。

翌15日、松野邸からハコ乗りして自民党本部に行くが、昼になっても総務会は開かれない。朝方の「松野幹事長」ムードは次第に薄れていく気配だ。

午後1時、三木首相、福田副総理、大平蔵相、中曽根幹事長、灘尾総務会長らが集まり、密室での長談義となった。4時前、予想もされなかった「内田常雄幹事長、松野総務会長、桜内義雄政調会長」が決定された。福田派の松野は、その動物的な勘と卓抜した政界操縦術を持って三木サイドに加担していることで、福田ら挙党協の「反松野」は強かった。

このときには、「朝刊の見出しでよかった」と思う一方で、政治記者には場数が必要、と痛感したものだった。

後日、三木、松野の間で、閣僚を三木寄りメンバーで固め、臨時国会冒頭に解散を決行、資金45億円は河本敏夫が手配済み、と松野から聞かされるのだが、そこまでのことは取材できずじまいだった。また、挙党協側は土壇場で、三木の任期いっぱいの残留を認めることで、解散を封じ込める妥協に踏み切ったのだった。三木が解散できないということであれば、「松野幹事長」にこだわる意味は薄れてしまう。

                                                  ● ○●○●○

この展開に、松野も一矢報いている。この直後の内閣改造では、福田には一切相談せずに同派から松野と関係のよい中馬辰猪を建設相、早川崇を厚相にとり、抗議する福田には「それなら、キミが副総理をやめろ」とまで言っている。角福戦争以来、支持し続けた福田の「松野幹事長」阻止の動きには腹に据えかねるものがあったのだ。

結局、三木は初の任期満了選挙で大敗し、辞任することで、この場の決着は一応つくものの、混迷だけは尾を引いていった。

ところで、私は駆け出しの佐藤派担当のころから、持ち場が変わるたびに保利茂系の政治家に出会うことが多く、松野、坪川信三、塚原俊郎、細田吉蔵といった人々の取材が増えていった。「三木おろし」のころ、三木を支える松野の一方で、挙党協代表世話人の保利も担当していたので、政治的に対立する両者に自分の立場を話して、双方にニヤリとされながらも受け入れてもらったことがある。

保利と松野も毎日、腹を見せないながらも電話だけは掛け合っていた。私には、三木打倒の挙党協の論理・説明はいささか説得力を欠き、この点では松野に分があるように感じられた。また、このとき以来、松野の政治家としての姿勢は大きく変化するのだが、その後の松野を見続けても、それは本質的な変ぼうであった。

                                           ● ○●○●○

三木の後にやっと政権についた福田は78年11月、2年の任期を経てやや人気の上昇するなか、初の全党員による総裁予備選挙を受けて立つが敗退する。これは去り際の三木が提言した選挙であって、いわば三木の怨念を帯びていた。それに、大平を担ぐ田中派の必死の票集めと、かつての挙党協仲間からささやかれ出した「2年交代」密約の前に、福田は政権をもぎとられたのだ。「天の声にも変な声もある」と福田の言った名文句は、百戦錬磨の政治家が悲痛と我慢の瀬戸際で、思わずうめいたように聞いたものである。

この取材では、半分反省・半分自慢の思いがある。

予備選挙は、大福のふたりと中曽根、河本の4人が出馬し、各都道府県ごとに、党員数に応じた持ち点を上位2人の得票数の比率に応じて配分する方式だった。そこで、まず社の電算室のプロに簡便な計算式を作ってもらい、全国の支局に数字送稿の手順を指示、政治部に2、30人の社員の協力を得て計算センターを立ち上げ、そこで即時に集計・計算できる体制を作った。

その結果、若い数字しか出てこない夕刊早版から早々と、1面に全幅2段通しのカットで、「『大平総裁』実現へ」と打つことができた。福田首相はすでに「予備選の結果尊重」と明言、直前に会ったときも負けることなど念頭になかったのか「ウン、そりゃあ、守るよ」とにこやかに言うので、日ごろの率直さを信じて、国会議員による本選挙を待たずに大平への交代確定、と踏み切ったのだった。夕刊担当の黒瀬寿男整理部デスクから「ありがとう、一度は2段通しの見出しを作ってみたかったんだ」と挨拶されたことも忘れがたい。

しかし、翌朝刊では、柴部長名で「派閥選挙まざまざ/覆った予備選の予想」なる原稿を1面に載せざるを得なかった。というのは、150万党員の動向を4度にわたって調査、掲載したのが、はじめこそ「福大伯仲」としたものの、選挙入り当初の3000人調査では「福田過半数」として紙面化していたのだ。そのどんでん返しは田中派などの派閥による草の根作戦の結果であった。しかし、誤りは誤りである。

国民には傷跡も残す時代だったが、政治記者にとっては恵まれた修行の場であった。 まぼろしの「松野幹事長」    ─派閥抗争のはざまで─ 羽原 清雅 政治記者として、混迷の続いた「三角大福中」の時代の大半を自民党担当として、つぶさに取材できたことは恵まれていた。派閥の入閣拒否など、思いもしない局面の変化に方向が見定められず、原稿用紙を前に立ち往生したことも、いまは懐かしい。

「佐藤後」をめぐって、福田赳夫に争い勝った田中角栄政権は1974年の参院選挙で金権批判を浴びて退陣、椎名裁定により福田、大平正芳を期待する声をよそに「神に祈る気持ち」で三木武夫政権が登場、田中が76年夏にロッキード事件で逮捕されながらも影響力を誇示するなかで、三木を取り巻く政治環境は日増しに悪化していった。

田中の保釈を待つかのように、「三木おろし」の挙党体制確立協議会(挙党協)が衆参403人のうちの3分の2を集めて発足し、三木退陣を迫った。76年末には衆院議員の任期切れが近づいており、挙党協は臨時党大会での三木退陣を狙い、三木側は衆院解散による延命策を模索した。

双方の思惑の中で9月11日、臨時国会16日召集という合意ができ、14日には党人事・閣僚の辞任を取り付けた。だが、幹事長人事をめぐる疑心暗鬼で三役決定、組閣は15日に持ち越すことになった。

                                               ● ○●○●○


その14日夜、いや15日午前1時ころ、私はいつものように芝白金の松野頼三邸にいた。常連の記者たちは帰り、たまたま残ったのはひとり。松野には日ごろにないような緊張感があった。そこに、深夜の電話が鳴った。

「わかりました」「それで、海部は?」「やりましょう」──その内容から三木首相からとわかった。「幹事長ですね」「ウン」。飛び出して、近くの公衆電話に走り、政治部に電話で告げた。朝刊は大見出しだ、などと思い、締め切り間際の有楽町の社に急いだ。

すでに最終版の大刷りが上がっていた。「内閣改造、今夕に持ち越し/幹事長人事が難航」と一面トップの見出しはいいが、4段見出しで2行「首相は松野氏を考慮、灘尾氏で妥協の線も」と逃げている。キャップの柴隆治さんに「なんだ、これは!」と食ってかかった。

翌15日、松野邸からハコ乗りして自民党本部に行くが、昼になっても総務会は開かれない。朝方の「松野幹事長」ムードは次第に薄れていく気配だ。

午後1時、三木首相、福田副総理、大平蔵相、中曽根幹事長、灘尾総務会長らが集まり、密室での長談義となった。4時前、予想もされなかった「内田常雄幹事長、松野総務会長、桜内義雄政調会長」が決定された。福田派の松野は、その動物的な勘と卓抜した政界操縦術を持って三木サイドに加担していることで、福田ら挙党協の「反松野」は強かった。

このときには、「朝刊の見出しでよかった」と思う一方で、政治記者には場数が必要、と痛感したものだった。

後日、三木、松野の間で、閣僚を三木寄りメンバーで固め、臨時国会冒頭に解散を決行、資金45億円は河本敏夫が手配済み、と松野から聞かされるのだが、そこまでのことは取材できずじまいだった。また、挙党協側は土壇場で、三木の任期いっぱいの残留を認めることで、解散を封じ込める妥協に踏み切ったのだった。三木が解散できないということであれば、「松野幹事長」にこだわる意味は薄れてしまう。

                                               ● ○●○●○

この展開に、松野も一矢報いている。この直後の内閣改造では、福田には一切相談せずに同派から松野と関係のよい中馬辰猪を建設相、早川崇を厚相にとり、抗議する福田には「それなら、キミが副総理をやめろ」とまで言っている。角福戦争以来、支持し続けた福田の「松野幹事長」阻止の動きには腹に据えかねるものがあったのだ。

結局、三木は初の任期満了選挙で大敗し、辞任することで、この場の決着は一応つくものの、混迷だけは尾を引いていった。

ところで、私は駆け出しの佐藤派担当のころから、持ち場が変わるたびに保利茂系の政治家に出会うことが多く、松野、坪川信三、塚原俊郎、細田吉蔵といった人々の取材が増えていった。「三木おろし」のころ、三木を支える松野の一方で、挙党協代表世話人の保利も担当していたので、政治的に対立する両者に自分の立場を話して、双方にニヤリとされながらも受け入れてもらったことがある。

保利と松野も毎日、腹を見せないながらも電話だけは掛け合っていた。私には、三木打倒の挙党協の論理・説明はいささか説得力を欠き、この点では松野に分があるように感じられた。また、このとき以来、松野の政治家としての姿勢は大きく変化するのだが、その後の松野を見続けても、それは本質的な変ぼうであった。

                                             ● ○●○●○

三木の後にやっと政権についた福田は78年11月、2年の任期を経てやや人気の上昇するなか、初の全党員による総裁予備選挙を受けて立つが敗退する。これは去り際の三木が提言した選挙であって、いわば三木の怨念を帯びていた。それに、大平を担ぐ田中派の必死の票集めと、かつての挙党協仲間からささやかれ出した「2年交代」密約の前に、福田は政権をもぎとられたのだ。「天の声にも変な声もある」と福田の言った名文句は、百戦錬磨の政治家が悲痛と我慢の瀬戸際で、思わずうめいたように聞いたものである。

この取材では、半分反省・半分自慢の思いがある。

予備選挙は、大福のふたりと中曽根、河本の4人が出馬し、各都道府県ごとに、党員数に応じた持ち点を上位2人の得票数の比率に応じて配分する方式だった。そこで、まず社の電算室のプロに簡便な計算式を作ってもらい、全国の支局に数字送稿の手順を指示、政治部に2、30人の社員の協力を得て計算センターを立ち上げ、そこで即時に集計・計算できる体制を作った。

その結果、若い数字しか出てこない夕刊早版から早々と、1面に全幅2段通しのカットで、「『大平総裁』実現へ」と打つことができた。福田首相はすでに「予備選の結果尊重」と明言、直前に会ったときも負けることなど念頭になかったのか「ウン、そりゃあ、守るよ」とにこやかに言うので、日ごろの率直さを信じて、国会議員による本選挙を待たずに大平への交代確定、と踏み切ったのだった。夕刊担当の黒瀬寿男整理部デスクから「ありがとう、一度は2段通しの見出しを作ってみたかったんだ」と挨拶されたことも忘れがたい。

しかし、翌朝刊では、柴部長名で「派閥選挙まざまざ/覆った予備選の予想」なる原稿を1面に載せざるを得なかった。というのは、150万党員の動向を4度にわたって調査、掲載したのが、はじめこそ「福大伯仲」としたものの、選挙入り当初の3000人調査では「福田過半数」として紙面化していたのだ。そのどんでん返しは田中派などの派閥による草の根作戦の結果であった。しかし、誤りは誤りである。

国民には傷跡も残す時代だったが、政治記者にとっては恵まれた修行の場であった。

はばら・きよまさ 1962年朝日新聞入社 政治部長 東京 西部編集局次長 西部同局長 研修所長 総合研究センター 広報各担当 西部本社代表 2002年から帝京大学教授 著書に『国会』『結党40年─日本社会党』(共著)『日本社会党─盛衰の50年は何だったのか』『茨城昨今』など
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