ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


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なぜ今も昔も経済記事はおもしろくないのか―はずれ者記者の道程と仮決算―(菊池 哲郎)2011年3月

経済記事は面白くない。今もそうだが昔もそうだった。最もいい例が国のGDP話だ。中国に抜かれて3番目になってしまった。これなんかは中身は別としてわかりやすいから必要以上に注目される。だからそれを聞いてみんながっかりして、もう日本は駄目なんだと思ってしまう。しかも期待を担って政権をとった民主党のだらしなさは空前絶後だったから、ますますお先真っ暗になった。そこに3・11の東日本大震災だから世界中が日本を助けろになった。妙な温かさだ。余禄というかおかげで死に体だった菅政権は延命した。世の中はわからないものだ。

弱り目に祟り目、かわいそうな日本という構図がこれでしばらくは定着する。人は他人の困難や不幸を見てわが身を律するものだ。もっとわかりやすく言うと他人の不幸せは自分の幸せを相対的に浮き上がらせる。逆に他人の幸せはわが身の不遇を強調する。そういう世間にあって、ずいぶん長い間日本はかわいそうな側に立つ場面がなかった。あるいはそう感じる機会がなかったので、まだ慣れないが世界はお互いさま、長い時間の中ではいろいろな側に立つものだ。そもそも3000年以上の日中の歴史において、2900年以上は日本より中国の方が圧倒的に豊かな国だった。元に戻っただけで、それほどショックを受ける話ではない。

 

≪怪しい怪しいGDP統計≫

 

そもそもGDPというのが怪しげな統計であって、人口の半分以上を占め毎年毎年ほぼ同じことをやっている公務員や金融や商社や報道機関に外食産業、スーパー、コンビニ、病院などなどサービス産業がGDPにいかに反映されるのか、経済記事でちゃんと説明しきっているものはあったためしがない。政府が自分都合で計算して発表した数字を受け入れて、前期より顕微鏡で見るほど減ったの増えたのと繰り返しているだけだ。

しかもはるか昔のインフレ時代につくった、表面価格だけで比べると値段が上がればGDPが自動的に大きくなるので、インフレ分を差し引いた実質GDPなどという概念をいつまでも優先し続けるから、デフレ時代にはいって価格が下がってGDPの絶対額が減っても実質的には増えたとか言い出した。どう見ても減っているのに実質で増えたとか発表して、政府としては景気対策に効果があったなどという都合のいい数字を言い連ね、エコノミストと言われる人たちもそれを鵜呑みにするし、若い記者たちもそれを細かく上手に解説し、実質成長を理解しない人は馬鹿であるということになって反省がない。

1,2年ならそういうごまかしをやっても大した弊害はないが、それを20年もやり続けたらそもそものところからいろんなものがずれてしまって、今やGDP統計はGDP統計のためにあるのであって、だから私と何の関係があるのかは、そのことを語るのが仕事の人にはそれが商売だが、それ以外は誰もわからなくなってしまった。去年のGDPと今年のGDPがさほど変わらないのに、突然、今年卒業の学生は全然就職できなくなったり企業の損益が裏表ほど変わったりすることが、説明できない統計を後生大事に一番偉い統計として扱っているところが漫画なのである。経済記事が面白くない、つまりそれがすごく大事なのにたくさんの人に読んでもらえない根源がここにある。

 

≪政治部志望が経済部に拾われる≫

 

前置きが長くなったが、私は最初に配属された千葉支局からほんとは政治部へ行きたかったが、拒否されて、それまで新聞社にそういう部が存在することも知らなかった経済部に拾われることになった。これはその後の一生を左右した。実は知らないこととはいえ、時の編集局長の親友であった某知事候補の足を引っ張る連載企画を40回ぐらい県版でやった。一人で全部書いた。その最中にその候補者の事務所に取材に行って玄関をはいると事務所全体がフリーズした。候補者本人が奥の部屋で電話中。大きな声で「あの連載をやめさせてくれ」と誰ぞやに言っているまさにその最中だった。彼は電話を終えて部屋から出てきて私を見てひどく狼狽していたが、私も驚いた。いま読み返しても非常に面白い企画だったが、当時、同県でも実力者だった水田三喜男さん(変動相場制に移行した時の蔵相)が後でだが、「あれ(私の取材源のこと)は嘘を言うからな」と言っていた。当時、私は若い独り者だからほとんど住み込みで同時進行取材していたから取材源が言ったことは嘘ではないが、確かにそれがすべてではなかった。しかし、それは今でも乗り越えがたい真実と事実が秘め持つ限界の最初の経験でもあった。

だから初めての兜町はそれなりにその別世界ぶりに感動し面白かったが、わかってないからろくな記事は書けなかった。その後通産省や大蔵省に回されたが、クラブ移動を言い渡す経済部会で部長が「いよいよ秋、予算のシーズンになるので大蔵省の菊池君は農林省」と、一番下っ端が一番最初に左遷を発表されてキャップに慰められた覚えがある。自分ではできもしないくせに経済面は面白くなくてこんなのだれも読まないとか生意気を言っていたことや、あの経済部最大の花の舞台が開始された第1回サミットがランブイエであった時のミスマッチが関係した。サミットの事前取材は頑張ったが本番は一番下っ端でどうせ役に立たないからと自分で決めこんで、こともあろうにタヒチに遊びに行ってしまったのが災いした。まあ、当たり前か。時の部長が遊ぶ時は遊べと言ったのを実行したまでなのだが。

 

≪200カイリで連日一面トップを書く≫

 

ところがその後2年半の農林省クラブ担当は最高に熱が入ったし、未知の情熱的世界で、その取材は結果的に一生役に立った。その時突然のように200カイリ時代がやってきた。はずれ者が連日1面トップを書く200カイリ問題の中心になってしまった。農林クラブに泊まり込んでいた若い私は原稿が下手でしかも一人の時が多かったので、秘密だが、実は朝日と読売のキャップに原稿を直してもらって出していた。名は伏すが、彼らは偉かった。もう一人東京新聞にマスさんという名物記者がいた。私はいろいろ教わっていた。日ソ漁業交渉という当時年間最大の仕事が終わったその日、実は次官の人事があった。私はそんなことつゆ知らず、「交渉終わり」がもう嬉しくて他社の若い記者たちと新橋に繰り出して飲みまくり、朝まで連絡不可能だった。それを知っているマスさんがその日のうちのデスクと友達だったこともあり、その人事の記事を送ってくれていたのだ。次の日の新聞を見たら毎日新聞だけその人事が1面にでかくのっていた。感謝なんてもんじゃなかった。

そしてというか、だからというかその後エコノミスト編集部に、外から見ればまた飛ばされた。いろいろあったからだが、私は新聞記事がまず結論から書き出して最初の1行2行でわかるというのが気に入らなかった。だらだらと推理小説のように記事を書き、読者が途中でやめられなくさせて最後に一番いいことが書いてあるという方式に固執し続けたのだ。デスクは大変だったに違いないし、そんな奴を忙しい新聞の世界においておくのは身の危険だったのだと思う。しかし農林次官が送別会を開いてくれて「有能な若人を雑誌に出してしまうとは、毎日もダメだな」と声援してもらったのが忘れられない。次官にはその後エコノミストで連載を書いていただいた。

 

≪ヤマニ主導のOPEC長期戦略の全文入手≫

 

エコノミスト編集部もこれはまた非常に面白いところだった。小室直樹さんという渡部恒三さんの高校の同級生がいた。貧しくて弁当も持ってこれなかった直樹さんに恒三さんは弁当をあげていたという話だ。直樹さんは汽車賃もないから大学受験は会津から下駄を履いて歩いて行ったのだという。その彼がエコノミストでデビューした。移ったのはそのころで、直樹さんは「何でも学者」として一時単行本でも週刊誌でもモテモテになった時期があった。その彼が日常生活は全然駄目だからある日突然栄養失調で倒れて入院、とある人の懸命の看護で生き返ったが、回復して飲みにきた。「医者が言っていたが栄養失調で死ぬ寸前だったと。倒れるとね、世の中からカラーがなくなって白黒になってしまうんだ。どうしてだろ。これを研究する」とか言っていた。強烈な、純で心やさしい変人だった。

時はイラン革命であった。ホメイニが帰国し革命が成功する日を当てて、その日にイラン革命特集の専門家座談会を組んだのが自慢だ。OPEC に関心を持っていて当時は世界的注目の的であったヤマニ・サウジ石油相が旗を振ったOPEC長期戦略の全文を某所から入手(世界で未公開)してエコノミスト大特ダネ号を発行した。残念ながら関係者の間以外大した反応はなかったが、数ヵ月後に読売新聞が独自に入手したと言って同じものを1面トップでド派手に大々的に報じた。「あああ、いーけねんだ」とか思いながらも、弱小週刊誌の悲哀を感じ復讐を誓ったのだった。だが、だからこそマニアックな世界でしか得られない宝物もたくさん手にした。宇沢弘文先生の担当になって原稿をいただきに自宅まで押し掛け、先生は夜中に帰ってきて私は出来上がるまで別の部屋で待っている。奥さんがかわいそうってお酒やご飯を出してくれる。結局、奥さんに話を聞きながらいろいろ教えていただき、酔っ払って寝てしまい、先生は真面目に(たとえばお正月特別号の長尺の巻頭論文などだからそれがないと雑誌ができない)朝方まで徹夜で書き上げ、ゆっくり寝た私が朝ごはんまでいただいて原稿を持って会社に戻るといった超贅沢ができたのでもある。おかげでその後30年以上にわたって、経済部長とか論説委員長さらに主筆になったりするたびに、宇沢先生からしっかりやれよと激励会を開いていただく果報を味わうことができた。そのうち何回かは仙谷さんも付き合わされたのだが、仙谷さんはその割に冷たいところがある。

経済部に戻ってエネルギーの世界を取材している時だった。昭和石油の名物永山社長が石油連盟の会長をしていた時、お昼の懇談会で「シェル石油と合併する」とエネルギー記者クラブ全員の前で挨拶したことがある。記者たちは三々五々抜けて夕刊用に両社合併の記事を送った。私一人が送らなかった。会長が今日そういうことを言うが、まだ希望の表明で実現は決まっていないしずっと先のことだからと、深い?取材で既に聞いていたからだ。案の定あの発言はなかったことにしてくれと午後に訂正会見があり、私が正しかった。だが、これほど正しくない行動はなかった。全紙夕刊1面で合併表明がでかでか乗り、次の日の朝刊で否定会見がまたでかでかと載った。私は書きようがない。大失敗であった。嘘とわかっていても書くのが正しい出来事だった。(のちに合併は実現したが、それははるかずっと後のことだ)。

 

≪当局者が語れない金融政策をどう書くか≫

 

その裏側のような話になるが、金融の世界を取材していた時のことだ。昔ながらの公定歩合というものが金融報道として主軸だったころのことだ。澄田総裁に三重野副総裁のころだ。三重野さんが、「金利の世界はあらゆる情報を可能なだけ集めて自分でじっと考えて結論を出すしかないのです」と教えてくれた。含蓄だらけの話なのだが、金利政策をはっきり言うことは日銀法に反し犯罪になってしまう。各種指標を基礎に政治状況や世界の流れを踏まえたうえで、取材は阿吽や雰囲気や意味不明のやり取りや理解不可能な言動から判断して上手に書くしかない世界だった。だからひどい時は、「日銀総裁は記者会見で「当面引き上げることはない」と述べ、来週にも引き上げる方針を明らかにした」といった日本語として絶対変な記事が大々的に載っていた。言ってはいけないし、言わないのに書くわけにはいかないが、何も書かないわけにはいかない非常に面白い世界だ。実はその陰で昔からマーケットで連中が巨額の損得のギャンブルを張っていたのだが、今ほどそれが表で露骨には出ていない時代であった。

マーケットが決める建前の今とは違って、政策決定が偉いわけだから実は非常に危うい均衡があった。たとえばだれかが公定歩合引き下げの前にたくさん株を買い込んで、引き下げれば株価はだいたい上がるから後で売れば簡単確実にもうかる世界があった。引き下げ前に引き下げることなどないような情報が流れていて景気浮揚は先であると読んで、株価が下がっていてくれればもっといいことになる。しかも近々下がることを実は知っていれば確実性や選ぶべき株の銘柄がさらに選別しやすくなる仕組みだ。

そういう危ない世界があるから当局者は金融政策を語れないし、明確に語ってはいけないのである。そんな目先の株だけでなく、金利の上げ下げで、借金の利払いができなくなり、あるいは景気が変動して倒産する企業が出たりするのは避けられない。借金を背負って結局生命保険で支払うために自殺するかもしれないし、一家離散など人々の運命をインフラ的に変えてしまう。政府の政策ほど直接的にわかりやすくないので助かっている面はあるが、実は非常に危険な世界なのだ。だからマーケットが表面に出て市場先行で金利が決まるという今式の世界は平等公平かもしれないし、ただの責任分散なのかもしれないし、管理不能になっただけかもしれない。よくなったのか実は後退したのか微妙なところだ。

 

≪プラザ合意後のパラダイスの中で「資産インフレ」「バブル理論」を≫

 

そんなことは構っていられないのが、現場の記者である。とにかく上げるのか下げるのか、当てるのが勝負だ。1985年のプラザ合意で世界は変わった。1ドルが250円だった円は120円へ、そしてついに100円から79円まで円は10年で3倍の値段になった。その間に日本はバブルを膨らませ、崩壊させたのだが、バブルがふくらむ直前からバブルピークまで金融を担当した。あれは最高の世界だった。世の中にはいたるところ「活気」しかなかった。世界はバラ色だった。あとで思えば実に変だったがその真っ只中はパラダイスだった。今でこそ「バブル」が世間で説明もなく普通に使われているが、新聞で「バブル」の見出しを載せたのは毎日新聞経済面(私の記事)が初めてだ。87年夏だ。紙面の見出しは「バブル理論」になっているが、ようやくそこでデスクと妥協した。

当時、地価が阿呆のように高騰して東京の地価だけで合わせるとアメリカ全土より高くなった。今のうち日本を全部売ってアメリカ全土を買おうと騒いでいたのを思い出す。どう見てもこれ変だろうと、日銀や経済企画庁の中を聞きまわった。当時は「資産インフレっていうのかな」とかが最先端だった。インフレは通貨価値の問題だから資産価格だけに限定するインフレというのはそもそもおかしいのだが、そこらへんの食べ物とか洋服はインフレというほど上がってはいないし、自動車などの値段が高いのはぜいたくな内装や高い機能を搭載しており価値が高いのだから高くて当たり前、じゃによってインフレとは言わない。しかし、銀座の地価がマンホール1個分の広さでサラリーマンの生涯給与より高いとなれば異常だろう。

で、しかたなく「資産インフレ」で何となくわかったような気になる用語の使い方をしたのだ。だがこれでさえ、実は新聞で使う前に某月刊誌でためしづかいした。それをもとにほら月刊誌でも使ってるよ、とデスクをだまして新聞でも使った。そしたら書いた記事とその月刊誌の内容が非常に似ているとそのデスクが文句を言う。もう新聞が刷り上がった後で取り換えられない夜の1時過ぎ、「大丈夫。文句言ってきたら私が対応します」と帰った。月刊誌も自分で書いたのだから大丈夫なのだ。しかし資産インフレでは説明がつかない事態の進行があった。で、さらに聞きまわったら、なんか「バブル」っていうんじゃないのこれ、と日銀の調査統計局の親しくしていたHさんが古い英語の本のコピーを見せてくれた。バルブ(チューリップの球根)のバブルなんかのことが書いてあったと記憶している。

それを読めば昔は馬鹿なことをやってたもんだなというのはわかった。だがその時の日本の状況がそれと同じバブルなのかどうか、これが分からない。当局は日銀を含め実需だと言って譲らない。でもHさんもその後この話に加わってきた、けっこうたくさんの日銀マンも悩んでいた。今(当時のこと)がそれなのか。今(現在のこと)となればまさにその時がバブルだったことは明らかだが、初めてその渦中にいるときというのはわからないものなのだ。現にこの「バブル」もそんなこと聞いたことがないし、百歩譲っても現状がバブルなのかと反論するデスクの説得は大変なのだ。資産インフレでいいんじゃないかときた。違うと言うとこの前お前が言ってたのはどうなんだとくるからダブルに大変だったが、まあ「バブル理論」と妙な妥協で決着した。妥協せず「今やバブルだ」とやっていればもっと偉かったのだが。しかし現実はバブルが新聞紙上では普通に使われるようになるまでそれから5年近くかかった。その間は現実にはバブルの言葉はバブルが壊れ、「バブル崩壊」がはやるまで使われなかった。

 

≪89年の公定歩合引き上げは”春の夜の夢”≫

 

そのバブルを破裂しないように長持ちさせるべく、プラザ合意以来ずっと下げっぱなしだった公定歩合を過熱防止で引き上げるときが来たと、大騒ぎしたのが私の日本の現場での取材競争の最後だった(そのあとロンドン。戻るとデスク)。平成の最初の年1989年2月3日ワシントンであったG7に取材で出かけ、澄田総裁が到着するまでの時差を使いG7で日本はアンカー(日本は最後まで世界経済のため利上げをしない覚悟をそう言った)だが、利上げを検討することを伝えると言ったような記事(遠距離砲?)を書いた。機内でこれを読んだはずの澄田総裁は、おとといまで東京の記者会見でああだこうだ言っていた私がワシントンで出迎えたら、にこっとして文句を言わなかった。三重野副総裁が数年前教えてくれた自分で考えるんですよ、をやってみた。そういう頭にして総裁の話を聞くと、全部言う内容が上げるよと言っているように聞こえてくるものなのだ。成功だと思った。

以降、連日なぜ金利引き上げしなければいけないかの材料をああでもないこうでもないと探しまわって(この時最高に優秀な部下3人を得ていたから材料はあり余るほど集まった)、書き続け、一人じゃさみしいし浮いてしまうので日経新聞も説得して早めに同じ路線につきあってもらった。途中にはかなり早い段階で(中距離砲という)来週にと言いたかったが、最大限遠慮して、連休明けにも0.5%利上げへとやった。(正式な当局の某会議で毎日は暴走だとか言われた)結局5月30日に引き上げたのだが、本人は5月中だからまだ連休明けだとか言い訳したがもはや連休明けとは言えまい。しかも上げ幅も0・75%(遅れるからこういうことになった)で、客観的には大敗北。しかもそれまで4ヶ月間利上げ話は一切1行も書かなかった朝日新聞が、当日ピッタシカンカン「今日0・75%引き上げ」を特ダネした。読売も日経もその前に近づいた時点で0・75%がありうるような上手な書き方をしていて、誤報ではなくなっていた。私のところは、当日は抜かれたし直前も今さら0.75には変えられんと幅も時期も誤報だった。

だがしかし、早く上げないとドンとぶっ壊れて日本が長続きしないとの信念で2月から5月末まで上げるぞ上げるぞと、その理由を50回以上書いたことが間違ってはいなかった。否、その間何も知らしていない朝日新聞よりはるかに正しかった。着地点が少々大雑把だっただけだ。読売も日経も時事も共同もその間いろいろとそれらしきことをだんだん書くようになって(客観的にはこれが普通かもしれない)みんなで雰囲気を盛り上げてきていた。ほんと、その間一行も書かず我慢し続けて最後の一発で新聞記者の勝負に勝った朝日のT記者(Yではない)のまねはできない。

我慢など一切できない私には絶対にできないことだ。書かないことに正義はないと身にしみていたし。彼は会社で何か立派な賞をもらったと記憶している。その百倍ぐらい書いた私とその仲間たちは抜かれてしかられた。が、身も心も満足だった。あとからその時の新聞をめくってみれば誤報と規定されてしまうかもしれないが、新聞はあとで読むものではない。同時進行ドキュメントである。ネットなどない当時、世の中の流れを十二分に伝え、思っていても決して言えない当事者の決断をせかしその過程を世に送ることができたからだ。

だからその時の各社の彼らとは今でもしょっちゅう飲んでいる。はるか遠くなった20世紀の話だ。だがあの時、三重野さんの暗示によって私が先走って書いたように、もし2月に上げてその後上手にバブルを壊さずにマネッジしていったら日本の失われた20年はなかった。だが実現しなかった。春の夜の夢だったのだ。

 

(毎日新聞社常勤顧問 2011年3月記)

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