ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


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2度目のメッカ巡礼で見たこと、考えたこと(最首 公司)2011年2月

◆手術、減量で備える◆

身体がいうことをきくうちに、もう一度メッカ巡礼に参加したい、そんなことを漠然と考えていた。前回は1968年なので、40年目の2008年がいいと、まずはひげを生やして準備したのだが、そのころから左股関節の痛みがひどくなり、ステッキを使うようになって断念した。

 

「先天性変形股関節症」と診断され、09年2月にチタン製人工関節の置換手術を受けた。経過は順調で、6カ月後の8月にはステッキを使いながらも一人でリュックを担いで北欧2カ国を回った。フィンランドとスウェーデンの、固い岩盤に掘削された地底に潜って、使用済み核燃料貯蔵所を取材することができた。

 

これでメッカ巡礼の自信が少しもてた。とはいえ、巡礼から帰った教友に様子を尋ねると、誰も勧めてはくれない。「富士登山と同じで、一度だけだから有難いのです」と、当方の年齢を慮って断念勧告をしてくれる人もいた。私は8月のラマダン月をそのまま続けて、文字通りの断食を続け、67kgの体重を60kgにまで落として、周囲にアピールした。

 

もう一つ、私は奥の手を知っていた。それはジャーナリスト・グループに参加することだ。前回もそうだったが、サウジ政府は各国ジャーナリストが取材しやすいようにバスを仕立て、簡易宿舎を提供してくれる。テント群や投石場(悪魔に見立てた石柱に向かって小石を寝下つける)が撮影できるよう安全な高台も利用できる。幸い、新任のトルキスターニ駐日大使は旧知の間柄である。私は大使にお願いした。


◆サウジは変わった◆

42年前の巡礼以来、私は何度かサウジを訪問している。入国のたびにちょっと不愉快になる。それは入国審査が終わって旅券にスタンプが押されて返されるとき、放り出すようにするのだ。

 

ところが、今回は違った。贈り物でもするようにそっと窓口に置いてくれたのだ。私は思わず「ショックラン」(有り難う)といったら、なんと英語で「ウェルカム」という返事と笑顔が返ってきたではないか!私一人だけへのサービスかと思ったら、他の窓口も同様だった。この変化はサウジ政府の巡礼政策が大転換したことを示す象徴的な現象だということをのちに思い当たった。

 

◆聖地に電車が走る◆

 

2010年(イスラーム暦143年?)の巡礼は、11月14日日没とともに始まった。メッカを出た巡礼者の群れは東南20kmほどの「アラファトの野」で1泊し、翌日のマグレブ(日没)の礼拝を終えて「ムッズタリファ」という岩石だらけの荒野に向かう。凹凸の激しい地形の平地を探して仮眠する。なにせ200万人以上の巡礼者が空き地を求めて横になるのだ。通路はゴミ捨て場になる。その雑踏、乱雑のさまはたとえようもない。

 

明け方に歩き始めて「ミナの谷」に至り、テント村に入る。ここで2泊するが、この間、悪魔に見立てた柱に石を投げる行事を行い、犠牲のヒツジを屠って巡礼を終える。最終日は「犠牲祭」と呼ばれ、断食明けと並ぶ2大祝日になっている。この1日半、私の歩数計は2万2000歩を記録していた。距離にすると20kmくらいになるだろう。

 

◆「聖書」の行事の再現◆

 

一連の行事は旧約聖書で知られるイブラヒーム(旧約ではアブラハム)とイスマイル(同イサク)の物語に似ている。というより、アラブではエデンの楽園を追われたアーダムは、各地をさまよった挙句にメッカに至り、ここに神殿を創建した、と信じられている。その神殿がメッカ大聖殿である。ちなみにジェッダには「イブの墓」とされる墓苑がある。

 

メッカ大聖殿はヌール(ノア)の時代に大洪水で流されたが、それを再建したのが3大一神教の最初の預言者イブラヒームだ。神はイブラヒームの信仰心を試そうと、息子のイスマイルを犠牲として差し出せと命じる。「そんな酷いことを神が命じるはずがない」と、白髪の老翁に化身した悪魔が神の命に背くよう誘惑する。

 

この悪魔に向かって3度石を投げて追い払い、息子に刃を当てようとしたとき、神は「ヒツジに代えて犠牲にせよ」という。メッカ巡礼はイスラーム以前からの仕来たりで、これにイブラヒームの故事を加えているのは興味深い。

 

◆サウジの聖地ツーリズム戦略の狙い◆

ジェッダを2台の大型バスで出発した記者団は、メッカを素通りして直接アラファトの野に向かった。聖域に入ると、バスの一角から「アラフンマ ラバイカ」(神よ いま御前に)という合唱が起こり、たちまちバス内は合唱に満ち溢れた。

 

冷静に巡礼を観察し、イスラームのパワーを考えてみようと、バスの外の景色を見ていた私は慌ててバッグの中から日本で用意してきたマニュアルを取り出し、合唱に加わった。この゛気゛の高まりが狭く、細くなっていくと、自爆テロのような過激な行為に利用されるのかもしれない。実際、この巡礼中に中央アジアの留学生から「日本で布教活動したいが・・・」と相談を持ちかけられた。私はまじめに対応していたら、あとで同じ国のジャーナリストから「彼には気をつけた方がいい。あの服装は過激派のグループに似ている」と注意された。

 

こんどの巡礼で最も驚いたことは、無人の原野だった「聖地」に鉄道が引かれ、「トラム型」10両編成の電車が走っていたことだ。交通革命のシンボルともいえる電車が走るとすれば、並みの国なら首都か商都、サウジでいえばリヤドかジェッダになるだろう。それが年間、わずか1週間しか利用されない巡礼の地に、サウジ政府は電車を走らせたのである。数年後にはメッカ中心部まで延伸される予定だ。

 

さらに加えるなら、投石に集まる群衆で毎年死傷者を出していた「ミナの谷」に5層の堅牢な回廊ができ、内部は空調によって29℃に温度調整されている。そして、テント生活する岩山には近代的なホテルが建設中だ。ホテルといえば、メッカの大聖殿は岩山に囲まれていたが、いまでは高層のホテル群が大聖殿を見下ろすように屹立している。

 

入出国係官の対応から電車、高層ホテル群の建設を目の当たりにして、これは「聖地ツーリズム」への転換ではないかと、私は考えた。「メッカ巡礼」には「オムラ」と「ハッジ」がある。前者は「小巡礼」と呼ばれ、いつでもできるが、大聖殿での周回祈祷を中心とした局地的な巡礼である。後者が今回私が経験した年1回の「大巡礼」である。

 

近い将来、「オムラ」もアラファトの野での礼拝、ミナの谷での石投げなどの行事が取り入れられ、「ミニ・ハッジ」化していくのではないだろうか。サウジ政府の計画には、メッカまで延伸された鉄道は、一方では第2の聖地メディナに向かい、他方では商都ジェッダに向かうことになっている。メディナからは、第1次大戦でアラビアのロレンスらに破壊された「巡礼鉄道」に沿う形でダマスカスにまで延びる予定だ。

 

アラビア半島の気象条件や歴史的な経緯からみて、製造工業を根付かせるには限界がある。ポスト・オイルを考えた場合、最も適しているのはツーリズムだろう。ツーリズムは製造業や建設業よりも雇用を増やせる。高学歴失業者の就業機会もつくれる。

 

一方、「艱難辛苦型」の巡礼を成し遂げた者は「ハッジ」と尊称されて地域のリーダーとして権威づけられる。それを狙って巡礼に参加した若者は「安全、安心、快適型」の巡礼によって、勢いを削がれることだろう。

 

ジェッダ滞在中に目にした現地紙に「聖地ツーリズムに貢献のあったメッカ州知事トルキ・ファイサル殿下(第3代ファイサル国王子息)に英国から『国際ツーリズム大賞』が贈られた」という記事があった。

 

歴史的に見て、この年(イスラーム暦1431年、西暦2010年)のメッカ巡礼は大きな転換点にあったといえるだろう。その巡礼にジャーナリストとして参加できたことは神のおかげだと思っている。                                                                       (中日新聞東京本社出身 2011年2月記)

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