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いちばん近い温泉地(阪口 昭)2005年11月

3年前、仕事と縁を切って全くフリーの身になったとき、挨拶状に「…これからはつとめてよく寝、歩き、読み、飲み、食べ、そして旅し…」と書いて送った。振り返って、ほぼこの通り実践している。

ただし、それは上っ面で、内容は当初の目論見とはかなり違っている。特に最後の「旅し」だが、当初は3、4泊以上の中・長距離、観光・見学型旅行を主に考えていたのに、実際は1、2泊の近距離、癒し型が主流になっている。近距離・癒し型とは、早い話、近くの温泉地に憩う、ということだ。計画も準備も何もいらない。思いついたら行くだけで、ものぐさ人種にふさわしい小さな旅だ。

よく行く先は熱海の伊豆山、箱根の仙石原そして奥武蔵の名栗温泉の3つで、このうち近頃いちばん頻繁に足を運ぶのが名栗温泉である。ここはなにしろわが家からたいへん近い。最寄りの西武池袋線のひばりヶ丘駅から飯能まで急行で30分強、そこから宿迎えの小型バスで30分弱。つごうたった1時間で世俗の地を脱し深山幽谷(オーバーではない。ちなみに名栗の宣伝文句は「奥武蔵最後の秘境」)を流れる名栗川沿いに佇む老舗旅館Tに着く。すぐザブンと浴びて憩う。

こちら年に6、7回行くリピーターで、連れは家内と時には近所に住む高齢のご姉妹を誘う。全く屈託ない。宿泊代1泊2食1万6千余円は高くない。

このほど改めてホームページを開いてみたら、この温泉の由来は「…約800前、手負いの鹿が湯で怪我を治しているのを猟師が発見し…」云々とあった。あれ!ここもそうか、と笑ってしまう。各所の温泉発見伝説はたいていこれで、鹿をはじめ鶴、白鷺、猪などの鳥獣が主役となり温泉を見つけて傷を癒す、といったパターン。医療がとぼしい時代が生んだ挿話である。

名栗温泉を愛した文人の筆頭は若山牧水。やはりTを定宿とした。
かれがここで詠んだ歌を2首あげる。

     ちろちろと岩つたふ水に這ひあそぶ 赤き蟹ゐて杉の山静か

     わかし湯のラジウムの湯はこちたくも よごれてぬるし窓に梅咲き

牧水と言えば漂泊の詩人で歌は牧歌的、叙情的と思われがちだが、この2首を見るかぎり違う。2首とも写実的、即物的だ。目、耳、鼻等5感を駆使して描写しつくしている感じがする。

それにしてもこの描写、少しリアリズムが過ぎていはしないか。特に2首目の「よごれてぬるし」には首をひねる。濁った湯はアチコチによくあるし、薬用効果を匂わせるが、「よごれて」はなんだかマイナスイメージに響く。

実際はどうか。私が入浴する名栗の湯は全く透明であたたかい。この違いは何なんだろう。牧水の時代によごれていた湯が時が移り自然に無色透明に変わったわけではあるまいから、たぶん人工的な手を加えてよごれを落とし、清らかであたたかい湯に仕上げているのだろう。

先頃、各地の温泉の成分と表示、掛け長流し型か循環型か、源泉の比率、あるいは医療効果等について、メディアが盛んに報道したことがある。全体として、人工的な手を加えてはダメ、誇大表示はよくない、正真正銘の湯をさがそう、というトーンだった。さて、この論議の脈絡のどこに名栗の湯を位置付けらいいのだろう。

話を飛躍ないし拡散させるようで恐縮だが、この種の論議を聞く時、私は決まってある養蜂業者の言葉を思い出す。蜂蜜を買う時いつも不思議に思うのは1キロ何百円から何千円まで十倍もの開きがあり、しかもすべて「純粋蜂蜜」とあることだ。へんだ、との私の問にその業者の答えは「水飴でも粗糖でも一度蜜蜂のお腹を通ればすべて純粋。必ず通しているはず」。

なるほど。温泉も同じことか、と思いながら、名栗の透明であつい湯にひたすら私は沈む。

(2005年11月記)
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