取材ノート
ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。
入社15年記者/命守る報道の模索続け/備えの意識を次世代へ(小野寺 隼矢 岩手日報社花巻支局長))2026年3月
一字一句、丁寧に字解きしていく読み合わせ。15年前、新聞記者の基礎と心構えを学ぶ入社前研修の「教材」は、岩手日報社が東日本大震災3日後から約5万人を掲載した避難者名簿だった。記者が避難所を訪ねて情報を集め、不確定な文字は「●」で示した紙面は、当時の新聞の「常識」を超えて県民の命をつないだ軌跡だったと後に知った。
遺族取材機に会社を離れ
2011年11月、当時県警担当だった私は津波被害が甚大な岩手県の沿岸部に入った。犠牲者の生前の記録を残すため顔写真と人柄を紹介した企画「忘れない」。初動メンバーとなり、応急仮設住宅などを一軒一軒訪ねてご遺族の思いに耳を傾ける取材を数カ月重ねた。
新米記者の私は、がむしゃらに声を集めた。内陸部で育ち、土地勘もなければ、「浜の暮らし」に想像も及ばない。そんな中で多くの失礼を働いたと思う。私は、あるご遺族に「(故人は)津波から一度避難したのに、なぜ危険区域にある自宅に戻ったのですか」と聞いた。「親を残して逃げられるか。あんたに私の何が分かる」。この言葉は、今も胸の奥深くに突き刺さっている。
この企画取材は私にとって大きな転機になった。「机上の論を超えて、命を守る報道とは何か」。大局的な観点から突き詰めてみたいと考えた。一度会社を離れてJICA海外協力隊として中米・エルサルバドルへ赴き、異文化の災害常襲地で減災活動の実態調査に取り組んだ。復職後は海外取材の機会を頂き、地震津波被害が多発するメキシコやチリの被災者の声にも耳を傾けた。
これらの過程で見えたことが一つある。世界の多くで次なる災害への備えに人の営みの活字の記録が生かされていること。命を守った知恵は当然、それがなし得なかった人々の後悔も大切な教訓として紡がれる。
取材通して防災の話題広げ
震災から間もなく15年。「あの日」に生まれた子どもはもうすぐ高校生になる。私たち伝える側の一線記者も、災禍を直接経験していない世代が多くなった。「自分は当時を知らないから」と一歩引いてしまう住民も、後輩記者の存在も年々増えていると感じている。くしくも、震災と共に記者人生を歩んできた私。個人的に一つの節目を前に、取材の場で、社内外で、記事で伝える本業を超えた役割の意義も感じつつある。
昨年11月。宮城県気仙沼市で震災津波と豪雨で2度も自宅が被災し、私が現在勤務する内陸部の岩手県花巻市に移った女性を取材した。女性は転居後10年ほど続けた魚介類販売の仕事に一区切りをつけ、新たに月1回の子ども食堂を開いていた。
その機会にお邪魔し、取材の傍ら食卓を囲む子どもたちに震災の話を持ち出してみた。内陸育ちの子たちは津波のイメージが湧かない様子。それでも身近な防災テーマに話題を変えると、小学校で起震車に乗った経験や、沿岸に海水浴に行った際、家族が車に非常用食料を詰め込んで行った話を聞かせてくれた。
その流れで食堂を主宰する女性の背景を知った子どもたちは、震災のことにも関心を持ち始めていた。公私の線引きは当然意識しつつだが、取材を通して防災の話題を広げたり、住民同士をつなぐ潤滑油になれたことが少しうれしかった。
地方紙の記者は、この地で暮らす1人の住民でもある。同じ岩手県でも、私が暮らす内陸と沿岸では、次なる備えへの意識差もある。次世代に悲劇を繰り返させないために、復興の現場を伝え続ける使命と実践と共に、その中で授かった知見を地域に還元していきたい。
おのでら・じゅんや▼2011年入社 報道部 遠野支局 国際部などを経て 24年4月より現職
