取材ノート
ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。
祖母をあやめた21歳のケアラー/心を寄せる手紙を励みに(春増 翔太)2024年4月
支局に電話がかかってきたのは、月に何度かある夜勤の時だった。受話器を取ると、電話主の女性は小さな声で自分の名を告げた。神戸支局にいた2020年の秋。その声を、私は法廷でしか聞いたことがなかった。2カ月前、彼女が問われた罪状は、殺人だった。
これからつづるのは、その女性のことだ。今は社会の中で日々を歩んでいる。
2019年10月、21歳だった彼女は祖母をあやめた。その年の4月、念願の幼稚園教諭として働き始め、5月からは認知症の祖母と同居して介護も担っていた。仕事と介護で睡眠は2時間ほど。親族と職場の理解はなく、負担と苦悩を抱え込んだ。
ある日の未明、目を覚ました祖母に起こされ、いつものようにののしられた。「あんたがおるから、生きていても楽しくない」。昔から気性が荒く、認知症が進んだ祖母の非難は止まらなかった。
「もう…やめて」。それが5カ月で迎えた限界だった。裁判で、彼女は自らの罪に泣き、悔いた。
私は、そんな事件のあらましをほぼ傍聴だけで書いた。判決は執行猶予付の懲役刑だった。弁護士を通じて取材を打診したが、返答はなかった。記事は、匿名にした。
「私も介護に苦しんだの」
報じた後、思ってもみなかったことが起きた。支局に連日、全国から手紙が何十通も届き始めた。全て、宛先は彼女だった。
「私も介護に苦しんだの」「大変だったね」「これからは自分のために生きてください」
そんな手紙を毎週末に弁護士事務所へ届けに行くのが私の役割になった。本人から電話があったのは、手紙がようやく数を減らした頃だ。用件は「お礼」だった。
「頂いた手紙は全部読んでいます。私を気にかけてくれる人がこんなにいて、励みにしています」
礼を言いたかった相手は、私よりむしろ、匿名の差出人たちだったと思う。記事を書いただけの私は決まりが悪く、何かをモゴモゴと口にして受話器を置いた。
ラインで嬉しい報告が
本当は、嬉しかった。
礼を言われたこと以上に、彼女に心を寄せた人たちがいたことが。それを彼女自身が前向きに受け取っていたことが。罪を犯した匿名の誰かの境遇を知り、共感を持って言葉を贈る人たちの存在は、私にとっても励みになった。
後に私は彼女とじっくり話をすることができるようになった。きっかけは、あの電話だったと思う。そして、つい先日、彼女からラインで嬉しい報告があった。
「正職員として、保育の仕事に就くことになりました」
事件で失っていた幼稚園教諭の資格が戻り、自分でその職場を探したそうだ。
資格が戻っても実際に働き口を見つけるのは勇気が要っただろう。いずれ、執行猶予の期間は明ける。でも、彼女はそれで償いが終わるとは思っていない。2年前の冬、言っていた。
「私がいつか子どもと携わる仕事に戻れても、それを快く思わない人はいるかもしれない。それは、私が一生背負っていくことです」
確かに過ちを犯した。でも、私は願わずにいられない。やり直しの道を行く彼女に、彼女だったかもしれない人たちに心を砕く世の中であってほしいと。いつか、今度は、その名とともに彼女の話を届けられるように。
(はるまし・しょうた 2009年毎日新聞社入社 社会部 神戸支局などを経て 21年から再び社会部所属)