取材ノート
ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。
高木勇樹さん 元農林水産事務次官/霞が関官僚の生きざま 学ぶ(若江 雅子)2024年2月
1999年から2000年にかけて農水省を担当した。当時の次官が高木勇樹さんだった。社会部記者だった私は農水官僚の汚職事件ばかり取材していて、農政を深く考えることもなく、時折、次官室にうかがっても聞くのは不祥事案件ばかり。目障りな記者だったろうに、高木さんはいつも静かに淡々と応じてくださった。「悪いことは悪いと書いてもらっていいんです。多くの人の目に触れることで自浄作用が働くのです」
担当を離れてからも時折声をかけていただいた。私の札幌勤務時代に、出張のついでに寄ってくださったこともある。
ただ、距離がぎゅっと縮まったのはちょうど10年前、各界の著名人を取り上げる弊紙の連載「時代の証言者」でインタビューさせていただいた頃からであろう。
連載は2014年2月から約1カ月間だったが、数カ月前から毎週のようにやりとりした。幼少期の思い出から家族や親友の話まで、まるで古女房のごとく彼を知ることになったが、時間がかかった最大の理由は、高木さんが語る農政の半世紀が、私にはあまりにも重かったからである。減反政策の非合理、政治の介入、度重なる改革の頓挫。それは日本の農政の失敗についての、自戒を込めた赤裸々な告白でもあった。
「政治が彼を殺したのです」
強く記憶に残っているのは、官房長時代の1996年11月30日、食糧庁総務部長だった紀内祥伯さんが自ら命を絶った時の話である。
当時、自民党は米価引き下げの見返りとして補助金100億円の予算化を要求していた。「つかみ金」との批判が出る中、紀内さんは「減反に協力した農協への奨励金」と位置づけることでやっと大蔵省の了解をとった。だが、党はさらに「全国一律に支給しろ」と要求してきた。それでは単なるバラマキになる。紀内さんは憔悴しきっていたという。
「政治が彼を殺したのです」。高木さんの静かな声が耳に残る。
辞表胸に農政の仕組み変革
紀内さんの死から約1カ月後、高木さんは食糧庁長官に就任する。初日の朝、辞表を背広の内ポケットにしまい、以後、退職の朝まで入れ続けたという。「たとえ職を追われても、今の仕組みを変えよう」。紀内さんへの誓いだった。
変えたかったのは政策決定システムだ。当時、農水省では政策決定前には必ず自民党に報告し、了解を取り付けてから実行していた。「密室で行われるから無理な要求がまかり通るのだ」。高木さんは、まず米価下落の場合の損失補填のための基金を作り、代わりに1000億円以上の補助金を廃止した。政治が関与できる余地を減らすためだ。党は反発したが、極力、公開の場で是非を議論することで乗り切ったという。
ちょうど連載の取材をしていた頃、霞が関の幹部人事を内閣人事局に一元化するための法案が成立間近だったのを思い出す。高木さんは「これが通れば官僚は政治の顔しか見なくなる。政策形成過程の透明化をセットで進めなければだめ」と憂えていた。いま、その懸念が的中したことを様々な場面で痛感している。
考えてみれば、霞が関の仕組みや官僚のあり方など、すべて高木さんから教えてもらった気がする。今も霞が関を取材しながら、頭がこんがらがると高木さんの言葉を反芻してみる。実のところ、私は「高木学校」の生徒だったのだ。
(わかえ・まさこ 1988年読売新聞社入社 北海道支社 東京本社社会部などを経て 現在 編集委員)