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斎藤勁さん 元内閣官房副長官/「永田町」に向かない政治家(五十嵐 泰)2023年7月

 大相撲千秋楽の表彰式で、大きく重さも40㌔以上ある「内閣総理大臣杯」を一人で持ち上げ、国技館内を沸かせた。大柄だが眼差しは優しい。「気は優しくて力持ち」を地でいくのが、30年以上取材をしてきた斎藤勁元内閣官房副長官だ。資質、実力は十分だったが、「永田町」には向いていない。そう感じる政治家だ。

 気さくな人柄で誰にでも会い、話せば好かれ、信頼される。発想や政治姿勢は柔軟で、調整力は高く評価されてきた。ただ、国会議員の多くが重要視する「損得勘定」を好まなかった。

 社会党の横浜市議として安定し、将来を嘱望されていた1995年、党の退潮ムードが隠せず、当選が見通せないため候補者を見つけられなかった党に要請され、参院神奈川選挙区に出馬した。

 この時は最下位で何とか当選、民主党に移り、活動も評価されて再選も果たした。党の参院副会長や総務局長なども歴任、いよいよこれからという2005年、今度は突然、参院議員を辞めて衆院選に出馬する。選挙区は神奈川11区、相手は小泉純一郎首相だった。

 

議員辞職し小泉首相に挑戦

 11区に有力候補をと依頼されて探したが見つけられず、「小泉政権の安全保障政策は許しがたい。誰もいないのなら自分が出ようと決めた」。後に、そう明かされた。

 「あなたは民主党参院の中心になる人だ。将来は副議長にもなれる」。参院関係者はそう言って一斉に反対、党幹部も「出馬は頼んでいない。本当にいいのか?」と何度も確認したが気持ちは変わらなかった。こうしたケースならば検討される比例代表での救済措置も「全く考えなかった」という。

 結果は惨敗、議員の職を失う。07年参院選には初めて比例代表で出馬したが、ここでも特別扱いは求めず、落選した。

 09年の衆院選には、南関東ブロック比例下位で出馬した。事実上の人数合わせだったが、政権交代の勢いで当選した。党内には閣僚など重要ポストにとの声もあったが、要請された国対委員長代理、内閣官房副長官といった、要職だが黒子役でもあるポストで奔走した。

 「議員としての活動に専念する」として、勧められた再選のための活動も一切していない。12年衆院選は、これまた党の要請で全く縁のない山梨1区から出馬し落選、政界から身を引いた。

 

平和にこだわり、政治塾設立

 政界引退後は、名誉職や企業の顧問などに就くケースが多いが、それもしていない。働きながら高校、大学に通っただけに、若者の教育には人一倍関心が強く、設立した政治塾「勁草塾」の運営を16年から本格化させた。母校神奈川大学の副理事長が、引き受けている数少ないポストの一つだ。

 市議当時から「平和」と「地方分権」にこだわり、米軍基地問題にも熱心に取り組んできた。沖縄県にも頻繁に足を運んでいたが、長く親交のある玉城デニー知事の要請を受けて4月、沖縄県政策参与に就任した。今後は月に数回は沖縄に通うという。

 「日本の政治、経済は危機的な状況だ。党がどうこうではない。日本を救い、再生する政治勢力づくりにも取り組みたい」―。永田町には向かないが、こんな政治家が少しでも増えてほしい。そう感じる斎藤氏の活動は、これからも続く。

 

(いがらし・やすし 1986年共同通信入社 政治部副部長 特別報道室長 編集局企画委員などを経て 現在 予定チーム長)

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