取材ノート
ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。
戦艦大和元乗組員八杉康夫さん/生への執着 とてつもない強さ(中島 大)2023年4月
あまり知られていないが、元戦艦大和の乗組員、八杉康夫さんは被爆者である。生きて国に帰ってきたという複雑な心情を抱きながら被爆直後の広島市に復旧作業のため訪れ、入市被爆した。
そこで土手に倒れていた少年に出くわす。少年は水を求めていた。だが、海軍の教えを守り、それを優先した。「水を与えれば死ぬ」。八杉さんはその場を立ち去った。どんな気持ちで死に際の少年を振り切ったのだろうか。この時の思いを「人生唯一の後悔」と後の取材で語っていたのを思い出す。
今から18年前の2005年3月、八杉さんに初めて会った。広島の本社から福山に転勤したばかり。自伝本を出版したので記事にするためだった。福山市内のマンションに温かく迎え入れてくれた。
地獄を見た言葉の重み
よく通るやや大きめの声で、かなり微細に自身の戦争体験を語ってくれた。少年兵とはいえ、軍人の視点で語る内容に少なからず興味があった。海軍に憧れ、志願して入隊した人物と、一般の市民の被爆者とでは戦争への見方がおのずと違うはず――。そう思っていた。しかし、話を聞くうちに、究極的には変わらないと気付いた。
沖縄特攻で出撃した大和が沈没し、乗組員が海に放り出された時、迫り来る死の恐怖を実感したという。重油にまみれて眠るように死んでいく仲間の水兵や丸太を自分に渡して先に死を選んだ上官を見てこう思った。「死ぬのは怖くないと教えられたが、実際はそうじゃない」。まさに地獄を見た者にしか分からない言葉の重みだった。
この頃、私は30代前半で死について真剣に考えることなどなかった。だが、八杉さんにとてつもない強さを感じた。生への執着とでも言おうか。それから、用もないのに取材の合間に自宅を訪れるようになった。決まって元気と自信をなくした時、「話を聞きたい」と電話してお邪魔した。
「男たちの大和」指導担当
「八杉さん、忙しそうですね」
「最近は映画の指導なんかでバタバタですよ」
「あの映画のですか」
「だって、スタッフが全然当時のこと知らないから」
「知らないって?」
「軍人の言葉遣いとか、大和の中で何を食べていたとか、日常の細かい所ですよ」
こんな会話をしたのも覚えている。当時、映画「男たちの大和/YAMATO」の製作中で、八杉さんは映画の指導にも当たっていた。この映画を初めて見た時、八杉さんの物語だと直感した。主人公の少年兵は仲間や上官を失い、生き残り、年老いてから大和の沈む海へと向かう。俳優の仲代達矢さんがその役だったが、危険を冒してまでも大海に船を出して大和の幻影を追う老人の行動は、罪ほろぼしにも、若かった過去の自分との決別にも見えた。
老人は、八杉さんの姿と重なった。よく海軍の食事のことを話していたが、確かに映画でも食事のシーンがよく出てきた。取材で微細に話を聞いた内容と一致していた。それだけにこの映画を見た時、泣かずにはいられなかった。
海の向こうでは、まだ戦争が行われている。今こそ戦争体験者の声に耳を傾けるべきだろう。ただ、残念ながら八杉さんは3年前に92歳で他界した。お別れの言葉を言えていない。だからこのエッセーをそれに代えたいと思う。
(なかじま・だい 1997年中国新聞社入社 報道部 三原支局長などを経て 2022年から岡山支局長)