ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


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伊達洋至さん 移植医療の道切り開く/命を報じる重み刻まれた(井上 光悦)2023年3月

 2003年秋。時計の針は午後9時を回っていた。

 「今は何も答えられません。手術に集中させてください」。岡山大病院呼吸器外科の医局前で待ち構えていた私に、姿を見せた伊達洋至さん(現 京都大呼吸器外科教授)は語気を強め、きっぱりと言った。その言葉には医師としての覚悟がみなぎっていた。

 国内での実施例が極めて少ない脳死肺移植が翌日に決まり、執刀準備のため自宅から駆け付けたところだった。患者は移植でしか命をつなげられない。失敗は絶対に許されないという緊張感が伝わってきた。

 患者にとっても医師にとっても、移植はぎりぎりの状況下で行われる。医療担当になったばかりの私は、何か情報を得ようと気持ちばかりが焦り、その厳しさを十分理解できていなかった。

 「命を報じることの重み」を痛感しながら病院を後にした約20年前のことを、今も忘れていない。

 

世界最多の生体肺移植

 伊達さんが所属していた岡山大医学部は150年以上の歴史を持つ日本有数の医師養成機関で、付属病院は高度医療の最前線でもある。取材先の一つとして私も足しげくキャンパスに通っていた。

 2000年前後の同病院は、がんの遺伝子治療や性同一性障害に対する性別適合手術など、新しい医療を次々と手掛けていた。特に呼吸器外科による肺移植は全国のメディアが注目していた。数々の難手術を成功させ、日本の移植医療を引っ張る存在だったからだ。

 その第一歩となったのが、1998年10月の生体肺移植の成功だった。患者は重い肺の病気を患う20代女性。2度の米国留学で腕を磨いた伊達さんにその命が託された。手術当日は報道各社のヘリが飛び交い、病状を報告する記者会見が連日開かれるなど、治療の成り行きに日本中の関心が集まっていた。手術は成功し、女性は社会復帰を果たすことができた。

 2007年に京都大に移った伊達さんはその後も症例を重ね、手掛けた生体肺移植は世界最多の160例以上を誇る。移植機会の拡大にも挑み、21年には新型コロナウイルス肺障害に対して、22年にはABO血液型不適合の生体肺移植をいずれも世界で初めて成功させている。

 

「忘れられない患者がいる」

 移植医療の第一人者となった伊達さんだが、数年前の取材で目を潤ませたことがある。京都大の教授室で「忘れられない患者がいる」と1枚の写真を見せてくれた時だった。

 一緒に写るのは蓑上真寿美さん=当時(15)。重い肺の病気で1997年12月、自宅がある熊本県から岡山大病院に入院してきた。生体肺移植を希望したが、両親と血液型が合わず脳死ドナーを待った。しかしドナーは現れず、約半年後、息を引き取った。

 「目の前で人が亡くなっていくのに、医師として何もできない。これほどつらいことはないですよ」

 移植医療という道なき道を切り開いてきた伊達さんの一番の原動力は、蓑上さんを救えなかった悔しさなのだろう。私が岡山大病院の医局を訪ねたあの日も、彼女を思い浮かべながら準備していたに違いない。

 私は今も医療取材を続けている。記者として命とどう向き合うか、どう伝えるか―。そう考えるきっかけを与えてくれたのが伊達さんだ。以来、医師や患者に話を聞く前は必ず深呼吸をし、気持ちを整えてからと決めている。

 

(いのうえ・みつのぶ 1997年山陽新聞社入社 社会部記者 報道部デスクなどを経て 2019年から編集委員)

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