ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


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元自民党参院会長・青木幹雄さん/「言葉より空気」で国政の中心に(南 彰)2021年4月

 政治記者として駆け出しの頃は、首相のぶら下がり取材での丁々発止が日常だった。前回のリレーエッセーで毎日放送の奥田信幸さんが取り上げた橋下徹・大阪市長(当時)なども担当。「記者会見は、現代の政治とメディアの主戦場」と肝に銘じてきた。

 その筆者が10年以上、「懇談」という伝統的な政治部の取材手法で接してきた政治家がいる。「参院のドン」と呼ばれた青木幹雄・元自民党参院会長だ。

 

■因縁の相手の番記者に

 

  番記者になったのは2009年。東京・平河町の砂防会館にある事務所で、愛飲するたばこの「チェリー」をくゆらせる青木氏と向き合った。「ここで話したことは表に出さないでくださいね」が決まり文句だった。

 青木氏との関係は、人生の岐路とも重なる。

 島根県で計画されていた中海干拓事業の歴史を研究する大学生だった2000年。「止まらぬ大型公共事業」を巡り、竹下登元首相と対峙していた弁護士の錦織淳氏の選挙を手伝うことになった。

 事前の情勢調査では拮抗していた。しかし、弟・竹下亘氏に代替わり。元首相も急逝という弔い合戦を指揮したのが、当時官房長官の青木氏だった。完膚なきまでに打ち砕かれた錦織氏は出雲から撤退し、筆者も新聞記者になった。

 

■世襲批判の記事も不問

 

 そんな因縁のある青木氏の番記者となったので、青木氏の去就が注目されていた2010年参院選に向けて、竹下、青木両氏を育んだ出雲の政治風土に迫る企画「探訪保守」を執筆することになった。出雲で暮らす人々の息吹を感じながら、政治家だけでなく、出雲大社や「日本一の山林王」と呼ばれた田部家への取材を積み上げた。

 「青木氏は1月8日、年明け初めて出雲入りする。新年会に顔を出すが、出馬表明はせず、18日の県連で青木氏の公認申請を一方的に決め、青木氏が受け入れるという筋書きである。身内へ受け継がせる環境が整うまで、漁協組合長から一代でつかみ取った政治家という『家業』を簡単に手放すわけにはいかないのだ」

 自らは去就や世襲を口にしない青木氏をこのように論じる大型原稿を載せた朝のことだ。

 羽田空港で待ち受けていると、青木氏は「どうぞ、どうぞ。お茶でも飲んで行きなさい」といってラウンジに招き入れた。

 しばらく歓談をしていると、後から入ってきた国会議員に「この人は出雲のことを取材していてね」と紹介し、こう付け加えた。

 「きょうも何か書いとったわね」

 すべて読んだ上で受け入れていたのである。

 ラウンジにあった朝刊を開いたその国会議員の表情が凍り付くなか、青木氏は何事もないように楽しそうに話を続け、飛行機に乗り込んでいった。

 この4カ月後、青木氏は「軽い脳梗塞」で入院。突如、表舞台から姿を消した。後を継いだ長男が参院選で大勝した。

 言葉よりも空気で動かす。日本政治の中心で力を持ち続けた源泉だった。筆者もその磁場で泳がされていたのかもしれない。

 参院選後、ほどなく復帰した青木氏のもとには、与野党の幹部が通い続けている。愛飲していたチェリーの銘柄は、いまはない。

 

 (みなみ・あきら 朝日新聞社政治部)

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