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北京で会った作家・山崎豊子さん/苦難の『大地の子』中国取材/「35%は贅沢」の一言に奮起?(近藤 龍夫)2020年12月

 古い書類の整理をしていたら作家、山崎豊子さんからの1989(平成元)年4月18日付の速達封書が出てきた。もう30年以上も前のものだが、改めて読み返してみた。彼女の大作『大地の子』執筆に当たって中国共産党総書記だった胡耀邦の支援がいかに大きかったかをうかがわせる内容だった。

 山崎さんは1984年から3年かけて中国での現地取材を重ねた。当時は報道関係者はいうまでもなく、外国人は自由にどこへでも行くことができず、ましてや取材となれば当局の許可を受けねばならない、きわめて不自由な時代だった。

 

■胡耀邦の支援で貧農家庭も取材

 

 徹底した取材で作品を書き上げることを信条とした山崎さんは『大地の子』の場合もその姿勢を貫こうとした。だが、「取材の壁は高く険しく、やむなく撤退の決意をした時、胡耀邦総書記との会見が実現した」と『大地の子』の後書きに彼女は書いている。

 84年秋と85年暮れに彼女は胡耀邦と会っている。この会見のあと、総書記のお墨付きを得て外国人に未開放の農村の貧農家庭や労働改造所など常駐記者にはまず許可されないようなところまで踏み込んで取材を続けた。それだけに胡耀邦は『大地の子』創作の恩人であった。

 その胡耀邦が89年4月8日、中国共産党中央政治局会議でその政治姿勢を追及される最中に倒れ、帰らぬ人となった。この死が、あの「天安門事件」を引き起こす要因の一つになった。

 その訃報に接した山崎さんは何が何でも葬儀に参列し、お礼と冥福を祈りたいとの一途な思いから、どうすれば訪中し、葬儀に参列することができるだろうかと私のところに速達便と電話をかけてきたのだった。

 「あなた自身が、中国大使館に葬儀に参加したいと直訴するのが最善の策」としか答えることができなかった。追悼式は人民大会堂で行われた。

 

■山崎さん、突然わが家に

 

 私は山崎さんと長い付き合いがあったわけではない。知り合ったのは85年秋、北京駐在日本人の集まりで初めて紹介された。そして、その数日後だった。当時、北京に2、3軒しかなかった日本料理屋の一つ「白雲」のカウンターで家内と夕食をとっていた。そこへ山崎さんが知人とやってきた。

 顔見知りになったばかりの彼女に「取材は大変でしょう」と話しかけると、「もう書くのをやめようかと思っている。なにしろ取材は目標の半分どころか35%ぐらいしかできていない」と不服そうに言った。胡耀邦の支援を受け常駐記者も行けないところまで取材をしているのに何をいまさら。そう思った私は「35%も取材できれば幸せです。それ以上を望むのは贅沢ですよ」と酒の勢いも手伝って中国取材の難しさを説いた。

 その夜、帰宅して家内から大作家に対し「贅沢だ」と大変失礼なことを言ったのではないかといさめられ反省もした。ところが、その翌日の夜、山崎さんが突然わが家を訪ねてきた。「やっぱり取材を続けようかなと思う」と言うではないか。「贅沢」がひょっとしたら、彼女の気持ちを前向きにしたのかもしれないと思った。

 苦難の連続だった『大地の子』の現地取材。彼女は後書きに「政治体制、生活環境を異にする国での取材はひたすら忍耐と努力を重ねるほかなかった」と書いている。忍耐と努力、それは贅沢と相対するものではないだろうか。

 

(こんどう・たつお 朝日新聞出身)

 

*10月号掲載のリレーエッセー「ドラマ「大地の子」の養父役・朱旭さん」(五十嵐文・読売新聞国際部長執筆)を読んで、原作者の山崎豊子さんに北京で会った時のエピソードをぜひ寄稿したいという連絡を近藤龍夫会員からいただき、掲載いたしました。

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