取材ノート
ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。
坂本堤弁護士の母・坂本さちよさん/「生きている者の義務」として(松島 佳子)2020年3月
初秋の山あいにトンボが舞っていた。
長野県大町市の高瀬渓谷緑地公園。2011年9月11日朝。車から降りた坂本さちよさん=当時79歳=はゆっくりと歩を進めた。視線の先、陽光に照らされた木々の中に坂本堤弁護士一家の慰霊碑はあった。
1989年11月、オウム真理教の信者脱会支援に取り組んでいた坂本堤弁護士=当時33歳=、妻都子さん=同29歳=、長男龍彦ちゃん=同1歳=が自宅アパートで、オウムの教団幹部6人に殺害された。3人の遺体は95年9月、新潟、富山、長野で別々に発見された。
慰霊碑は、龍彦ちゃんの遺体発見現場から南方約4㌔にある公園内に建てられた。さちよさんがこの場所を訪れたのは遺体発見直後以来で、16年の歳月が流れていた。
事件が起きたとき、私は小学2年生。事件を取材したこともなかった。この日、碑の前で司法記者として、さちよさんに初めてお会いし5分ほどお話しした。
「これまで本当に多くの方にお世話になり、今もまたたくさんの方が息子一家を思い出し、親しんでくれている。けじめとして、お礼をちゃんとしたいと思っていました。それが、生きている者の義務なのだと思いました」
一言、一言が胸に重く響き、質問することすらはばかられた。
■「記者と話すのが嫌だった」
手元の携帯電話が鳴ったのは、取材を終え、神奈川の自宅に帰宅したその日の午後7時過ぎだった。さちよさんからだった。私の名刺にあった携帯番号にかけてきてくれたのだ。なぜ、連絡をいただけたのかは分からない。約1時間、胸の内を語ってくれた。近くにあった手帳を破り、走り書きした。
胸に突き刺さる一言があった。
「私、記者さんと話をするのがずっといやだったんです」
それは16年前、100人を超える報道陣の前にさちよさんが語った言葉と重なった。
95年9月。坂本堤弁護士一家3人の遺体発見後、初めてメディアの前に姿を現した母さちよさんは記者会見の冒頭、心境を問われ口を開いた。
「報道の方たちには本当に腹が立ちました。警察の方で真実が語られていないのに。胸の中をえぐられるような気持ちで過ごしました」
教団幹部による殺害の供述があってから遺体発見までの約4カ月間、捜査当局による正式発表はなかった。その間、さちよさんは長男一家の無事を願っていたが、一家が殺害されているかのような報道が続いていた。
■「取材される側の思い感じて」
事件発生から20年以上を経て、カメラや記者に追われることはなくなった。だが、取材する側とされる側の気持ちの落差を感じる、とさちよさんは言った。「事件発生当時、龍彦ちゃんは3歳だったですよね」。あるとき、享年も知らない記者から言われた一言に力が抜けたという。
「若い人は事件のことを知る由もない。それは仕方ないことだと思っています。だからこそ、せめて取材される側がどんな思いでいるのかを、少しでもいい、感じてほしい。それを表すことができるのが、記者さんの仕事ではないのでしょうか」
さちよさんが16年ぶりに慰霊に訪れたとき、長野の現場にいた記者は私一人だった。被害者遺族が胸の内を語れるようになったときメディアはいない。その事実に私は愕然とした。
考え続けたい。事件がなぜ起きたのか。被害者遺族がどんな思いで生きてきたのか。そして、取材するとはどういうことなのか。一人の記者の義務として。
(まつしま・よしこ 神奈川新聞社経済部)