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丸亀町商店街再開発をけん引/鹿庭幸男さん 時代を見通す商売人の勘(山田 明広)2019年8月

 香川県高松市の中心部にある丸亀町商店街は現在、南北約470㍍の通りを7街区に分けた再開発事業を進めている。北端の壱番街の完成から12年余。往事のにぎわいを取り戻しつつある光景を見るたびに、あの人を思い出す。1981年から四半世紀の長きにわたって、高松丸亀町商店街振興組合の理事長を務め、リスクの大きい再開発をけん引した故鹿庭幸男さんは「現在のまちの姿をどう思うだろうか」と…。86歳で亡くなられて、はや8年余になる。

 

■「若手が頑張ってくれた」

 

 「インタビューじゃ言うて、改まって何が聞きたいんな」。壱番街オープン前の2006年9月、再開発委員会発足からの16年を総括してもらおうと、組合事務所を訪ねた。あの刺激的な時間は今も忘れられない。

 ここで丸亀町の取り組みを解説しておきたい。事業は商店街というコミュニティーが主体となって身の丈に合った小規模な再開発を連鎖的に実施、既に4街区が完成している。最大の特徴は、土地の所有権と使用権を分離する手法を採用したこと。壱番街では、地権者の出資で設立したまちづくり会社が全地権者と定期借地権契約を結び、使用権を一括して保有。これにより整備した再開発ビルで時代に合った店舗構成を実現できるようになった。さらに家賃収入のうち、銀行返済などを優先し地代を劣後としたことで、地権者は店舗の売り上げに関心を持ち、商店街の運営にも関与しなければならない仕組みをつくり上げた。

 驚くのはこれら全てを商店街の若手が中心になって組み立てたことだ。若手を信じ支援したのが鹿庭さんだった。「よく頑張ってくれた」。民間主導なので法律の制約をクリアするのに苦労が絶えなかった。「16年。こんなに時間がかかってしまったか」

 

■「徹底的に失敗例から学べ」

 

 鹿庭さんが商店街を造り替える必要性を説き始めたのは1980年代半ば。そして、88年の開町400年祭の時、若手に調査を命じた。指示は明確。「徹底的に失敗例から学べ」だった。ただ、当時は多くの店舗が過去最高の売上高を誇っていた頃。「だから、何度も『やめろ』と叱責されてね」と頭をなでていた姿が懐かしい。

 これよりさかのぼること、約15年。鹿庭さんは車社会と郊外化が本格化すると考え、反対する組合の長老を説得し、駐車場経営に乗り出している。この駐車場収入が再開発に挑む原資となった。今回原稿を書くに当たって取材テープを聴き直したが、今さらながら時代を見通す眼力に驚嘆した。

 老舗かばん店を経営し、早くから東京にも進出。世界の流行を地方都市にもたらしてきた自負もあっただろう。口癖のように言っていたのが「皆が良くならんといかん」だ。1店舗や丸亀町だけが良くなるのではなく、市中心部の再興が願いだった。

 壱番街に入る店舗が決まっていく中、担当者は鹿庭さんへの報告に苦慮した。リストにはバッグのスーパーブランドが並んでいたからだ。でも、何も言われなかったという。「皆が決めたこと」。再開発への熱意と覚悟がうかがえるエピソードだ。

 「なぜ再開発に取り組もうと思ったのか」。現理事長の古川康造さんは鹿庭さんに尋ねたことがある。「『何となく嫌な予感がしたからな』がその答え。すごいと感じたね。これが商売人の勘なのかと」。再開発はそのすごさが分かる商売人に引き継がれている。

 

(やまだ・あきひろ 四国新聞社運動部長)

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