ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


リレーエッセー「私が会ったあの人」 の記事一覧に戻る

建築家・井上文勝さん /エルサレムの「とんでもない日本人」(尾木 和晴)2019年4月

 「エルサレムにとんでもない日本人がいる。アラビア語、ヘブライ語、英語が達者でパレスチナ側だけでなく、イスラエル政府要人、役人とも親交がある」

 そう聞いたのは初めてイスラエル取材に行った1992年。当時、週刊誌アエラの記者であった私は中東取材チームに入り、右も左もわからぬ中でエルサレムに到着した。ホテルまで迎えに来てくれたのが井上文勝さん(74?写真)だった。当時は48歳。一足早く着いていた先輩記者とカメラマンと大きな仕事に取り組んでいた。

 

■ラビン単独会見実現に貢献

 

 先輩記者はすでにアフリカのチュニジアでPLO(パレスチナ解放機構)のアラファト議長とのインタビューを成功させ、さらにアラファト議長から「イスラエルのラビン首相に伝えたいことは、イスラエルのドゴール(フランス元大統領)となって占領地を解放することだ」と言質を得ていた。先輩記者は、この言葉をラビン首相に伝えるためイスラエルに飛んだ。そしてイスラエル政府を動かしラビン首相インタビューを成功させたのが「とんでもない日本人」の井上さんだった。

 PLOとイスラエルの歴史的な和解(オスロ合意)の前年だったが、両者の緊張関係は続いていた。アエラではラビン首相とアラファト議長のインタビューを同じ号に掲載したが、同じページに顔写真を並べないのが条件だったことからもそのピリピリした様子は私でもわかった。私はオスロ合意への道筋の一つがアラファト議長のメッセージを先輩記者がラビン首相に伝えたからだと今でも信じている。

 

■ユダヤ人、アラブ人の双方と仕事

 

 井上さんは1944年秋田県生まれ。明治大学建築学科卒業後の1966年にイスラエルの国立工科大テクニオンに留学、その後も建築家としてイスラエル・エルサレム郊外のパレスチナ人地区の村に住み続けている。イタリア系米国人の妻ジャネットさんと3人の子どもを育てた。

 「仕事は建築ですが、ユダヤ人とアラブ人の双方の仕事をしています。またホロコースト研究も人生の大きなテーマなんですよ」

 実際、イスラエル国内では国立ヘブライ大キャンパスや国立美術館などの設計の仕事をする一方で、ドイツのホロコースト記念館の設計もしている。「第一回ホロコースト生存者世界大会」、世界的なバイオリン巨匠アイザック・スターン氏と広島での「平和へのメッセージコンサート」など、イスラエル、欧州、日本と多くの平和の行事に参加している。著作も『コルチャック先生・ある旅立ち』がある。

 ユダヤとアラブ、どちらが悪いのか。宗教対立や米国も加わった政治対立。どうしてこうなったのか、知りたい。門外漢ながら私の一つのテーマになった。

 ここから私は「門前の小僧」になった。中東のことなど何も知らなかったが、パレスチナ人地区に住み、ユダヤ人の悲劇を研究する井上さんが先生となった。私は1994年からアエラのロンドン駐在となり、計5回のイスラエル取材はすべて井上さんにお世話になった。ガザ地区、遊牧民族ベドウィン、証券会社―取材のアポイントもそうだが、どこを取材すべきか、どんな背景があるのか。移動の最中、食事のときなどすべての時間が「授業」であった。今年1月も現地を訪問した。もう27年間も「私の先生」である。

 「エルサレムはおもしろいでしょう。世の中の二つの勢力がぶつかりあう場所ですよ」

 この言葉を、勘の悪い小僧は、「白黒決めずに目を大きく見開いてみておきなさい」という意味だと理解している。

 (おぎ・かずはる 朝日新聞出版取締役書籍本部長)

ページのTOPへ