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ファクトチェックと新しいゲーム (吉田 慎一 日本記者クラブ元理事長)2019年1月

「全体像追求」の原点忘れずに

 インターネットでの誤情報の拡散や情報操作の動きが、日本政治でも現実味を帯びてきた。「まだまだ日本では」という見方が多かったが、そんな楽観論を吹き飛ばしたのは昨年秋の沖縄県知事選だったろう。

 

■ネットの情報操作に切り込む

 

 NPOやネットメディアに加えて、地元新聞2紙が本格的な「ファクトチェック」に挑戦した。ネット情報の真偽を判定し、その一部を発信、報道した。

 この前例のない取り組みは各種報道やこの会報でも報告されたから、詳細は避ける。だが、意図的なデマからミスリードまで、虚実入り交じった情報が飛び交うネットの実態が見事に浮き彫りになった。対決型という分かりやすい選挙構図、また総選挙とは違い、狭い地域に多数の取材の目が集中したこともプラスに働いたのだろう。

 もはやネットを抜きに選挙や政治は成り立たない。報道にとってネット空間の解明が焦眉の急になったことを、この試みは示している。

 政党や政治家は早くからネットに打って出た。2013年からは「ネット選挙」も解禁された。誰でも自由に発信できるから、選挙があろうがなかろうが、ネットには政治的な情報が大量に駆け巡る。「保育園落ちた日本死ね!!!」の例を挙げるまでもなく、ネットはマスメディアと並ぶ政治コミュニケーションの大舞台だ。

 ただ、反省を込めて振り返れば、食わず嫌いか対抗心からか、既成メディアにはネットを敬遠するムードが根強かった。

 欧米の選挙でのネット情報操作が話題になっていた一昨年末、ドイツのエアランゲン・ニュルンベルク大学チームが日本に関して気になるSNS分析を公表した。その3年前の日本の総選挙でも、情報を自動的に拡散する「ボット」が暗躍し、ナショナリスティックな情報が大量にばらまかれたという。仕掛け人は不明だが、投票日前後の54万件のツイートのうち、実に8割の43万件がコピーやリツイートだった。

 この話はしかし、昨春、1、2の報道機関が小さく報じた程度で消えていった。ネットの政治空間への関心や警戒心は、メディアではそう高くはなかったのである。

 沖縄のファクトチェックはそこに踏み込んだ。昨年2月の名護市長選で虚偽情報が出回ったのを放置した後悔もあったという。選挙と同時進行にこだわり、選挙中でもあえて「情報戦」の真偽を報じた。

 「後から指摘しても意味はない」「選挙がデマで左右されないよう投票前に有権者に伝えなければ」。そういう使命感を関係者があちこちで吐露している。

 選挙期間中でも報じる――一見、当たり前のその姿勢は、実はちょっとした方向転換を意味している。

 かつて政治情報伝達の主役はマスメディアで、強大な影響力を持っていた。戦前にはファシズムによる悪用もあった。その反省もあって、メディアは自律を旨とし政治勢力から距離を置いてきた。

 選挙ではとにかく「公正」に神経をとがらせた。いつしか惰性も生まれた。トラブルに巻き込まれたくない本能も働いてか、静かに見守るのが「中立」という姿勢に甘んじることもあった。

 そこにネットというもう一つの情報空間が急成長した。虚偽チェックの門番役だったマスメディアの外側に、情報操作すら可能なダイナミズムが生まれ、政治は全く違ったゲームに変貌した。

 

■形式的中立からの離陸

 

 もう伝統的メディアの形式的中立は意味をなさない。逆に、メディアがネット情報の虚実を報じない限り、「言ったもの勝ち」「やったもの勝ち」になりかねず、選挙の「公正」すら確保できなくなる。

 沖縄ではその危機感が現場を動かしたに違いない。報じない「公正」「中立」から、報じるそれへ。新しい試行錯誤が始まったともいえるだろう。

 広く見渡せば、ネットの膨張で政治が全く違ったゲームに変貌し、伝統的メディアが戸惑うケースが目立っている。

 今も続くトランプ米大統領の「フェイクニュース」「メディアは国民の敵」といったレッテル貼り、そしてツイッターでの無秩序な発信はその典型だろう。

 特徴的なのは、既成メディアの常識や公平感覚を真っ向から否定し、報道を「党派性のるつぼ」に巻き込もうとする点だ。報道には偏向や政治的意図があると決めつけメディアの信用をはぎ取る。ある種の目くらましである。

 一方で、自らネット発信で信奉者を維持拡大する。党派的な発信を目的とする「疑似」報道機関もネットには次々と生まれるから、何が事実か、事態はますます混沌とする。

 メディアの信用性どころか「真実」まで政治化してしまおうという手法だ。一時話題になった「オルタナティブ・ファクト(もう一つの事実)」はその象徴である。

 メディアが、政治の側からときに敵視されるのは宿命でもある。だが、トランプ大統領のように、記者会見など政治報道のルールを否定し、メディアに対する敵意を政治運動の「資源」に使いまくっている例はないだろう。

 日本も急速に景色が変わっている。真実を追求し共有し合う場所だったはずの記者会見が、一方的発信や強弁の場あるいは政治的対決の舞台へとなりつつある。

 マスメディアは社会共通の認識基盤を作ってきたという自負がある。だがいま、政治の側がメディアをバイパスできる発信力を握った。一方でネットによる社会の分断が進む。

 メディア不信をあおることで、その分断を都合良く利用しようという、ネット時代の政治ゲームがここでも始まっているのである。

 新ゲームの全体像の解明は、至難の業である。ファクトチェックで見てきたように、まずはネットの世界にマスメディアが切り込む以外にはない。だが、アクセス容易なオープンな空間はネットのほんの一部に過ぎず、フェイクニュースによる操作やプロパガンダの多くは、外からのぞきにくい無数の「閉じられたネット空間」で起きているという。

 

■マスメディア側も自己変革を

 

 となれば、我々が能力を格段に高め、閉じた空間にも網を張ることは欠かせない。広く一般に情報提供も呼び掛けねばならない。ネット解析のプロたちとの協業の輪も必要だろう。マスメディア側にこれまで以上の透明性と説明能力も求められる。

ネット空間を含めた政治や選挙の全プロセスに迫るためには、我々の自己変革と報道の態勢や手法の抜本的見直しは避けて通れない。

 それが実現すれば、「メディアの偏向」という最近横行する目くらましに対して、有力な対抗手段となることも期待できる。なぜなら全プロセスが明らかになれば、マスメディアの報道が政治過程全体の中でどう機能し、「公正」なのかどうか、その全貌も白日の下にさらされるはずだからである。

 メディアを「政治の格闘場」に上げてしまおうという策動が続く昨今、報道側が自ら進んで「政治化」に踏み出してしまう現象もなくはない。報道と評論が混然としたり記者とコメンテーターの区別が曖昧になったりするのは、その表れだ。「政策提言」もどきをジャーナリズムの軸に据える動きすらある。

 だが、それはネット時代に仕掛けられている危うい誘惑に、我々が安易に乗ることではないか。長い目で見れば、メディアが全体への奉仕者ではなく部分の代弁者であるというメッセージにもなりかねない。

 飽くなき全体像の追求こそが、いかにつらくとも、やはりジャーナリズムの原点であると思いたい。

 

 

よしだ・しんいち

1950年生まれ 74年朝日新聞社入社 ワシントン特派員 政治部編集委員 東京本社編集局長 常務取締役編集担当などを経て 2014年からテレビ朝日ホールディングス社長 1978年と95年に日本新聞協会賞 著書に『木村王国の崩壊』など 2011年から14年まで日本記者クラブ理事長

 

 

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