ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


リレーエッセー「私が会ったあの人」 の記事一覧に戻る

〝金丸パイプ〟の国対で存在感 元社会党委員長・田辺誠さん(梅野 修)2018年4月

 55年体制のらん熟期に、なれ合い政治の代名詞だった「国会対策(国対)政治」で存在感を示したのが、社会党委員長を務めた故田辺誠さんだった。1991年夏に社会党担当となり、委員長に就任したばかりの田辺さんに密着した。

 

 掲げた党運営のスローガンは「鮮明な対決、大胆な協調」。「あくまで協調であって、妥協じゃないぞ」と笑みを見せ、ほろ酔い気分になると「左手で殴り合っていても右手は机の下で握手だ」と自民党とのパイプを誇ってみせた。

 

 政権交代に向け、英国にならって野党として初めて「影の内閣」を組織。メンバーの顔写真入り大型パネルを当時の宮沢喜一首相に手渡してアピールしたこともある。

 

 93年の細川連立政権では、影の内閣メンバーだった6人が入閣し、田辺さんの試みが生かされた形となった。

 

 政治不信が高まると、政界再編の必要性を積極的に説いた。「大きな地殻変動が到来する」「そろそろ新しい家(党)を建てた方がいい」と主張し、社会党を追われた西尾末広、江田三郎両氏らの名誉回復を図るなど、野党結集の環境整備を急ぐ。

 

 92年のPKO国会が分岐点となる。参院本会議採決では連続徹夜の牛歩戦術を採用。衆院解散・総選挙を求めて党所属議員の辞表を取りまとめ、衆院議長に提出したり、「帰郷運動」と称して議員が一斉に地元に戻って街頭宣伝を行ったりした。国会後に参院選を控えていたことが選択肢を狭めたといえる。帰郷運動では結束固めに約130人の議員一人一人に「軍資金」を配り、田辺さんらしい対応と持ち上げられたが、後々まで「党内調整に精力の7~8割を割かれ、一番やりたくないことをやってしまった」と悔やんだ。

 

 異変は続く。PKO国会が閉幕して間もない8月。議員会館で田辺さんと話していた時に「金丸信副総裁辞任」の速報が飛び込んだ。田辺さんは「本当か」と絶句し、テレビ中継された金丸氏の記者会見を一緒に見た。「ちょっと一人にさせてくれ」と部屋にこもる時の寂しげな背中が忘れられない。

 

盟友失脚で「非自民」に傾斜

 

 金丸氏が佐川急便事件で失脚。田辺さんは親密な関係を非難され、委員長辞任に追い込まれる。蜜月時代に金丸氏と組んで北朝鮮との国交正常化を試みたことも「小切手外交」と批判を浴び、のちに明るみに出た拉致事件では「知らなかった」と釈明に追われた。

 

 力の源泉だった金丸氏とのパイプを失った後は「非自民」に一段と傾斜する。常に現実路線を模索してきた田辺さんだったが、自らの主張にほぼ沿った中身で基本政策を大転換させた村山「自社さ」政権とは一線を画した。金丸氏不在の自民党と、左バネが強い社会党の両方に見切りを付けたからにほかならない。

 

 委員長室には社会運動家、賀川豊彦の小説『死線を越えて』の一節を墨書した掛け軸。「太陽を射るものは雄々しくあらねばならぬ。灼熱の太陽に向いて矢を引き、理想の世界を射ねばならぬ」とそらんじ、求められれば「得意淡然 失意泰然」と記した。

 

 政界引退後は地元前橋市で老人ホーム経営に専念し、「老人はにぎやかな町中にいる方がいいんですよ」と語っていた。縦横無尽に活躍した時代を懐かしんでいたのかもしれない。

 

(うめの・おさむ 共同通信社編集局長)

ページのTOPへ