取材ノート
ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。
編集システム停止 下野の支援で紙面を(茨城新聞 滝本政衛)2011年4月
あの時から「まさか」の連鎖反応が続いている。
自然災害が少ない、というのが我が茨城県の誇りの一つだった。火山の噴火に脅えることもなければ、台風の直撃に眠れぬ夜を過ごすこともない。地震にしても小規模なものは比較的多いが、「それによって地震のエネルギーが分散され、大地震は起きない」という風説がいつの間にか定説化していた。事実、歴史を振り返っても大地震があったという話は聞いたことがない。
「まさか、大地震に見舞われるとは思いも寄らなかった」。県民の多くがそう思ったはずだ。
弊社も同じだった。他県で起きた災害に対し、対岸の火事として高をくくっていたことは否めない。まさか、災害の当事者になるとは思ってもいなかった。災害に対する社内の意識は心もとなく、備えもお粗末と言わざるを得なかった。
そんな状態の中で新聞発行の危機を救ってくれたのは、隣県・栃木県の下野新聞社さんの全面的な支援だった。地震直後から約2日半の間停電が続き、紙面編集システムがストップする中、弊社整理部メンバー数人を受け入れていただき、同社システムと輪転機をお借りする形で、2日間各4ページの紙面を発行することができた。
下野さんとは、唯一の備えともいえる災害支援協定を2009年に結んでいた。だが、まさか実際にお世話になるとは思ってもいなかった。
福島第1原発の事故、野菜や水の汚染、風評被害と、その後も「まさか」の連鎖は続き、安全神話が崩れた茨城県の地元紙として課題はガレキの山のように残された。ただ、震災が残したのは傷跡ばかりではなかった。
自宅の被災も顧みず、職場に駆け付けた多くの社員がいた。損傷だらけの道路を、往復4時間かけて宇都宮市まで行き来した社員がいた。放射能の危機にさらされながら、被災地を駆け回る社員がいた。
「県民に情報を届けなければならない」「紙齢を絶やすわけにはいかない」。震災は記者魂という大きな財産を残してくれた。
(たきもと・まもる 1979年入社 現・取締役編集局長)