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地元が情報「隔離」 現場に入れない記者(福島民友新聞社 小野広司)2011年4月

3・11。立っていられない激震が長く続き、本社は悲鳴と停電と散乱した機材の中で取材が始まった。ラジオ情報が大津波警報を告げる。海岸沿い(浜通り)の支社・支局の記者に連絡を試みるが、電話は有線、携帯とも通じず、無事を祈るしかない。

 

原発の「自動停止」の一報が入る。担当記者たちは過去の経験から、新潟中越沖地震でも東京電力幹部が誇らしげに話した「原子炉を止める、冷やす、閉じ込める機能」が発揮されたと、思い込んでいた。

 

福島第1原発1、2号機の原子炉冷却機能は大津波で失われていた。しかし、本社が原発の異常事態を真に実感できたのは午後7時、菅直人首相が原子力緊急事態を宣言してから。情報不足との戦いが始まっていた。原発最前線の浪江、富岡の両支局長が東電や町役場から危機情報を得たのは同9時ごろで、一人、取材姿勢の判断を迫られていた。

 

取材態勢を整える余裕もなく避難指示が出され、最前線の支局長2人は半径20キロ圏外へ撤退を強いられた。本社からの応援部隊も20キロ圏境ではね返された。

 

福島市。県災害対策本部は倒壊の恐れがある県庁でなく、隣の県自治会館に置かれた。12日午後3時36分、第1原発1号機建屋が水素爆発。誰もが凍りついた。

 

放射線との長い戦いが始まった。原発担当記者が想像もしなかった事態が次々に起きた。しかし、地元本部での東京電力のレクはまったく情報が出ない。官房長官会見の中継で始めて知る情報を追加取材しても、東電スタッフは「分からない」を繰り返す。

 

現場で何が起きているのか、情報は「隔離」され、原発取材の「前線」は発生から2週間、一貫して東京にある。

 

記者たちは今、放射線に振り回される避難住民や県民の姿を地域の視点から取材し、そして冷静に伝えることに神経を集中している。放射線と避難指示のため、記者なのに現場に入れない心の痛みを抱えながら、先の見えない手探りの闇の中で一筋の明かりを、読者に届けるため。

 

(おの・ひろし 1986年入社 現・報道部部長待遇)

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