ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


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号外降版直後 1号機建屋が爆発(福島民報社 早川正也)2011年4月

「浜通りに出した連中はどうした」

 

「まだ、連絡つきません」

 

「メールも全然だめ」

 

「とにかく電話をかけ続けろ」

 

東日本大震災発生翌日の12日午後3時35分すぎ、号外を降版し、一瞬、緊張感が緩んだ編集局に再び怒号が飛び交った。テレビには白い煙を上げる福島第1原発。1号機建屋が爆発した瞬間だった。

 

発生初日、第1原発では2号機の原子炉内の水位が下がり、政府は半径3キロ以内の住民に避難指示を出した。管内に第1原発を抱える浪江、第2原発が立地する富岡の両支局長は避難住民らと一緒に動いていた。問題は本社から朝一番で出した3組の取材班だった。

 

12日午前中には1号機の炉内圧力が上昇し、半径10キロ圏内の住民にも避難指示が出た。圧力を下げるため、炉内の蒸気を抜くという。「取りあえず浜通りの支社局員を全員、本社と郡山本社に上げよう」。そんな話をしていた矢先に爆発は起きた。急いでホワイトボードに名前を書き出す。連絡のとれた記者を一人一人つぶしていく。じりじりとした時間。全員の所在を確認した時には外は薄暗くなっていた。

 

発生から2週間余りが経過し、電話のかかりづらさこそ解消されたが、県内のライフラインや物流は完全に復旧していない。ガソリンはもちろん水や食料すら思うように手に入らない地域もある。その上、震度4~5クラスの余震が続き、深刻化する一方の原発事故が人々の不安を増幅させている。

 

それでも記者達は水とおにぎりをバッグに突っ込み、1~2時間も並んでガソリンを手に入れては、連日、大津波や原発事故に見舞われた浜通り地方を中心に取材を続けている。

 

彼らを支え、突き動かしているのは悲惨な現場や地元の人たちの思いを伝えねばならないという使命感だ。がれきと化した町から戻ってきた記者がつぶやいた。「まるで『戦場』ですよ」。補給を気にしながら「見えない敵」に向かって「突撃」と「退却」を繰り返す消耗戦。まだ、先は全く見えない。

 

(はやかわ・まさや 1984年入社 現・報道部長兼写真報道部長)

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