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つながった紙齢 新潟で8ページ20万部印刷(山形新聞社 保科裕之)2011年4月

突き上げるような震動の後、横揺れが続き、照明、テレビがぷつりと消えた。山形県内で観測された最も強い揺れは震度5強。大きな被害は免れたものの、大規模停電に見舞われ、新聞発行の危機に直面した。

 

ちょうど夕刊編集作業を終えたばかりだった。足元が揺らぐフロアに編集局長の声が響いた。「今をもって震災取材対策本部を設置する」。被害状況の確認へ、各記者を関係機関に向かわせる。県内外の各支社の安否確認を進めながら、取材先と担当記者名をホワイトボードに書き出した。「停電はかなりの規模のようだ」「道路が隆起した写真を撮った」。電話はつながりにくかったが、自家発電によって機能の一部を取り戻したフロアに次々、連絡が入ってきた。「自社ダネの面はつくれる」。そう思った。

 

ただ新聞発行に根本的な問題が残っていた。輪転機のある制作センターは夕刊が刷り終わった4分後、停電で全ての機能を失った。復旧のめどは立たなかった。

 

窮地を脱する糸口となったのは、1995年12月、新潟日報との間で結んだ災害時援助協定。8ページ構成で20万部印刷することを引き受けてもらった。データ送信は「記事画像交換システム」を活用することで解決した。共同通信と新潟、山形の3者で試験運用したばかりだったことが幸いした。

 

「新潟日報が刷ってくれるぞー」。フロアのどこからともなく「よしっ」という声が返った。

 

締め切りを通常より4時間早めて制作した3月12日付朝刊はモノクロ仕立て。紙齢を絶やすことなく「第45160号」を発行することができた。続く12日付夕刊も新潟に10万部を依頼。制作センターがようやく復旧し、10万部を加えた。

 

震災報道に追われる中、読者から一通の手紙が届いた。

 

「3月12日の朝刊、山形新聞に涙が流れてたまりませんでした。余震の続く中、徹夜で配達までこぎ着けた皆さんの報道人魂に頭が下がります」

 

新聞はニュースとともに、震災の中でも変わらぬ日常を届けることができる―新聞発行の使命をかみしめた。

 

(ほしな・ひろゆき 1987年入社 現・報道部副部長)

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