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命綱の自家発電 総力戦、輪転は回った(東奥日報社 三上朋徳)2011年4月

3月11日午後10時すぎ。窓の外は一面の闇に包まれていた。青森県を含む東北の太平洋岸で未曽有の大津波が発生して、桁外れの被害が起きている。編集局フロアでは、これまで経験したことがない自然災害の記録を紙面に刻む総力戦が大詰めを迎えていた。

 

この日、青森市の震度は「4」。幸いなことに本社内は実害がなく、輪転機も制作システムも無傷だった。しかし、地震発生直後から東北一円で送電がダウン。復旧のめどが立たない。唯一の”命綱”となった自家発電機で制作システムのサーバや組版端末を立ち上げ、輪転機を稼働させなければならなくなった。これまで何度となく自然災害下で紙面制作をしてきたが、外部電源が長時間にわたり完全遮断されたのは、今回が初めてだ。

 

使える電気の容量は限られる。非常事態のため、面建ては16ページに削り込んだ。運動面は1ページに減らし、地方面などは休載。株式、ラテ面を除いた残りの面に可能な限り地震のニュースを盛り込むことにした。

 

本社ビル内は不要の電力を可能な限り絞り込んだ。面担と呼ばれる整理記者たちは、薄明かりの下で手元にある原稿を読み込み、見出しを考え、レイアウトを練る。取材記者も現場を駆け回り、必死に情報を集める。出先からの原稿を電話で受ける「勧進帳」も復活した。

 

デッドラインが迫る中、大組みに没頭。時計の針は刻々と進む。やり直しはできない。悲しみの大見出しが付いた大刷り紙面のチェックに目を凝らす。そして降版。

 

自家発電の電源を少しでも印刷系に振り分けるため、編集局フロアは非常灯のみになった。輪転機が回り出した。

 

もう一仕事残っている。盟友の岩手日報社が自力発行できず、災害援助協定に基づき、わが社に協力を求めてきた。

 

午後11時過ぎ、車で6時間以上かけ、盛岡市から整理記者ら7人が駆け付けた。あいさつは省略。自分たちの紙面を作り終えたばかりの面担たちは、岩手の仲間のサポート役として再び組版端末に向かった。

 

(みかみ・ほうとく 1987年入社 現・整理部次長)

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