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3・11から5年:5年生記者は今/先輩記者と東日本大震災(2016年3月) の記事一覧に戻る

記者から町役場職員に転身し復興支援(朝日新聞出身 但木 汎)2016年3月

震災時、岩手県北上支局でシニアライターとして8年目を迎えていた。朝日新聞の記者になって以来、体験したことのない災害だった。記者生活40年を過ぎていた私も、6人の新人記者の方々と同じように、不安やおそれを抱きながら被災現場に入った。

 

それまでの記者生活は、震災取材のための助走期間ではなかっただろうか。ここで全力を尽くさなければ、それまでの記者生活が無為に帰してしまうではないか。そう自らを鼓舞せざるを得なかった。

 

壊滅的な打撃を受けた大槌町を取材現場に選んだ。大槌町は大津波で中心市街地が消滅した。人口の約1割の住民が犠牲になり、当時の町長を含め大勢の町役場職員が亡くなった。内陸部の北上市から車で片道2時間の大槌町通いが始まった。

 

●寝食を共にしながら取材

 

旧安渡小学校の避難所に泊まり込み、被災者の方々と寝食をともにしながら話を聴いた。48カ所に点在する仮設住宅を回りながら悩みを聴いた。皆さん、家族も、財産も奪われながら、相手を思いやる優しさを失わず、いたわり合い、肩を寄せ合いながら過酷な現実に耐えていた。支援のために現地を訪れていたボランティアは次のように話した。「支えているようで、実は私たちが支えられている。多くのことを学ばせてもらっている」

 

震災取材で2年が経過し、朝日新聞を退社する時期が近付いてきたとき、大槌町の当時の碇川豊町長から、思いもよらない誘いを受けた。「退社後、町の復旧、復興を手伝ってほしい。町の情報発信力を強化したい」。第三者として震災を報道する立場から、震災復興に直接、かかわる立場へ。それまでは望んでもかなわないことだった。

 

大槌町では広聴広報の強化が急務だった。被災者の方々に将来への希望を持っていただき、ともに前進するためには、復興情報を共有することが欠かせなかった。さらに全国からの支援者に復興への歩みを知らせる義務があった。月2回の広報紙をリニューアルした。月1回の定例記者会見や、月数回の町長と仮設住宅の住民が懇談する「お茶っこの会」を設営した。

 

町の公式フェイスブックに毎日のように出稿した。情報は包み隠さずに開示した。

 

記者から役場の広報担当になり、立場の逆転に戸惑うばかりだった。大槌町では、復興の遅れに加え、旧役場庁舎の保存や防潮堤の高さの問題をめぐり町民の意見が分かれていた。記者会見の場は行政と記者団との真剣勝負の場だった。町長は、住民を代表して切り込んでくる記者のどんな質問にも答えなければならなかった。事前の打ち合わせに時間を割き、有事の際の行政のしんどさを肌で感じた。

 

●風化させずに語り継ごう

 

現在、大槌町役場の「生きた証プロジェクト」に関わり、時折、大槌町を訪ねている。震災で犠牲になった町民1285人のご遺族全員を対象に、亡くなった方々の経歴、お人柄、亡くなった時の状況を聴き取り、記録集をまとめる事業だ。犠牲者を追悼するとともに、被災時の状況から教訓をくみ取って後世に伝えることが目的で、聴き取り調査の一員に加わっている。

 

母親が3人の子どもたちを保育園、小学校に迎えに行き、避難途中に津波に襲われ、一緒に亡くなった。消防団員が停電で使えなくなったサイレンの代わりに半鐘を持ち出し、打ち鳴らしたまま息絶えた……。ご遺族一人ひとりの証言は、一瞬の判断が生と死を分けた当時の状況を物語っている。

 

三陸沿岸は「津波常襲地帯」である。近代以降に限っても、明治三陸津波、昭和三陸津波、チリ地震津波に襲われている。今回の「平成三陸津波」を風化させずに後世に語り継いでいくことこそが、取材に関わったわれわれに課せられた責務なのだ。5年の節目に、あらためて、そんな思いにとらわれながら、ご遺族の方々からの聴き取りを続けている。

 

(たたき・ひろし 元朝日新聞政治部)

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