ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


リレーエッセー「私が会ったあの人」 の記事一覧に戻る

「異論を言う勇気を持て」―後藤田正晴さんの歴史観と憲法観(栗原 猛)2017年4月

田中角栄内閣が1972年7月、二階堂進官房長官、山下元利官房副長官、事務副長官は、警察庁長官を辞めたばかりの後藤田正晴氏という顔ぶれで発足。両副長官は官邸詰めの駆け出しの記者が交代で担当した。

 

日本記者クラブの常連、荒屋昌夫(東京中日)、長﨑和夫(毎日)、瀬下英雄(NHK)の各氏、異色では中央区長になった矢田美英氏(共同)らが担当だった。

 

後藤田氏の目白駅近くのマンションは、遅くなると1階玄関のカギがかかり、後藤田氏は12階からカギを持って下り、記者を送り出した。ある晩、午前零時をすぎ、「明日、秘書官に返してくれ」とカギを渡された記者が、コピーして皆に配った。翌日の夜、後藤田氏がカギを持って降りようとすると、気を遣った1人が「遅いからここで結構です。非常階段もありますし」と言ったので、「おかしいな」と複製事件はすぐ発覚した。特におとがめはなかった。夜回りは毎晩のように続いたが、後藤田番のデスク評は「特ダネはないがミスリードもない」だった。それから幾星霜―。

 

国会議員を辞めた後藤田氏を麹町の事務所によく訪ねた。歴史観や憲法観、大変な読書家で読後感などの話もあった。憲法観は大きく3点になるのではないか。1は政府や軍部のトップリーダーに対する不信感である。鬼畜米英と叫んでいた政府や軍部の高官たちは敗戦になると、責任逃れに走り、東京裁判では米国寄りの証言をした。この姿を見て「日本人はトップほど責任感がない」と痛感したという。

 

2は歴史観だ。第1次世界大戦が終わると好景気になったが、すぐ反動で銀行、商社などが倒産、農家では娘さんを売りに出すという窮状になった。義憤を感じた若手将校や右翼青年が浜口雄幸首相、井上準之助蔵相、団琢磨・三井合名理事長、犬養毅首相を暗殺。テロが起きるたびに国民は喝采するようだったという。だから「経済が悪いと政治家のせいだという風潮になる。景気にはよほど注意が大事だ」とよく言った。

 

3は後藤田氏の憲法論の真骨頂で、アジア情勢をにらんでいたことだ。「中国や韓国と緊張関係にある時に憲法論議をしたら、両国を敵視する雰囲気の中で進められ、取り返しがつかなくなる」と繰り返した。

 

最後にもう1つ。それは、日本人の特性についてである。「日本人は大事なことほどその場の空気で決め、決まると一瀉千里に走り出す。職場でもどこでも『ちょっと待って、異論がある』という勇気が大事だね」

 

衆参両院で「改憲勢力」が3分の2議席を超えた。後藤田氏はこの事態を予測していた節がある。憲法を議論するには敗戦と戦後改革、戦後の歩みに対する認識から始めないといけない。天皇が象徴する日本とは何か。個人の尊厳、国民主権、多様性と寛容、平和主義をどう定着させるかの議論は欠かせないだろう。

 

鎌倉霊園(神奈川県鎌倉市)の墓碑は長男、尚吾氏が書いた「自身の戦争体験から来る平和への強い思いが一貫した政治信念であった」と刻む。存命ならどういう言葉が聞かれるか。「まず格差の解消だな。日米関係も大事だが、未曽有の少子高齢化社会に入った。福祉、社会保障問題など、国民生活の足元固めをしっかり頼む」―と言うのではないか。

 

(くりはら・たけし 元共同通信編集委員) 

前へ 2019年12月 次へ
1
7
8
12
13
14
15
16
17
18
19
21
22
23
25
26
27
28
29
30
31
1
2
3
4
ページのTOPへ