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文革の中、一瞬見た「不倒翁」周恩来の影(大林 主一)2017年3月

1974年1月2日、大平正芳外相は、中国訪問の途についた。行き詰まった日中航空協定交渉を異例の「松の内」訪中で一挙に政治的打開を図ろうというものだった。

 

大平外相は、特別機による直行便を使わず2日香港で一泊、翌3日、風邪による体調不良をおして、香港領羅湖と中国領深?に架かる鉄道橋を徒歩で渡り「(日中航空協定を妥結させ)この橋を徒歩で渡る最後の日本外相にしたい」と北京向けのパフォーマンスを見せた。広州から中国機で北京入り。4日から交渉が始まった。

 

大平外相には、外務省担当霞クラブから記者10人が同行、私が「団長」(連絡世話役)を務めた。

 

4日は午前、姫鵬飛外相との外相会談。午後も会談継続の予定だったが、中国側が突然日程を切り替え3時半から、周恩来首相自身が会談に乗り出してくるという。団長の私に「記者団は、その前に会場に来るように」という中国側の意向が伝えられた。慌てて記者団が会場の人民大会堂の一室に到着すると、周恩来首相が姿を現した。

 

日本人記者団に直接話したいことがあるという。周首相は、われわれをぐるっと見渡した後、「君たちの中で、中国語が分かる人がいるか」と話し始めた。2、3人の記者が手を挙げた。すると、文革(プロレタリア文化大革命)が続く当時の中国で進められていた孔子批判運動について「私は、1919年の五四運動の時から孔子廟を倒せ、と主張してきた。これからも、この運動は徹底的に掘り下げなければならない」と、孔子批判は若い時から自らがやってきたことだと説明。さらに「孔子思想は、中国社会に依然根強く残っている。われわれは、これを一掃し、深く掘り下げようとしている」と熱を込めて語った。

 

やがて大平外相も到着し、会談は予定通り午後3時半から始まった。冒頭かなりの時間、記者団にオープンだった。周首相はまず、大平外相が特別機を使わず香港回りで北京入りしたことに「日本は石油危機でガソリンを節約したんですか」「香港なんか回るから香港風邪にかかるんですよ」「中国に言ってくれれば、こちらから日本に特別機を出したのに」と、皮肉交じりにさらりと先制攻撃。歴戦の国際政治家のすごさをわれわれにも見せつけた。

 

周恩来(1898年3月5日―1976年1月8日)。西安事変、長征、延安以来の革命家、外交家、軍事家。49年中華人民共和国成立以来、毛沢東主席の下、中国共産党中枢指導者、首相の地位を亡くなるまで守り続け、「不倒翁」といわれた周恩来。私は72年9月、田中角栄首相訪中による日中国交正常化交渉を同行取材し、幸いにも北京、上海で、あたりにオーラを放つ歴史のキーパーソン周首相を目の当たりにすることができた。

 

2年後のこのときは76歳、前年ガンも発見されている。江青女史ら文革4人組による孔子批判運動の名の下、自らが追い落としの標的とされていると感じる追い込まれた状況、その極限の中で日本人記者団を介し「自分は孔子批判運動の標的ではない」と西側に訴える姿。中国のすさまじい権力抗争を生き抜く「不倒翁」の影の姿を見た思いであり、43年たった今も記憶は鮮やかだ。

 

(おおばやし・しゅいち 中日新聞相談役・元政治部長)

 

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