ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


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モンテンルパ、ベトナム、そして中国(中俣 富三郎)2005年8月

敗戦から6年たっても、私は戦犯死刑囚としてフィリピンの獄舎につながれていた。そんなある日、朝日新聞の辻豊記者が姿をみせた。彼とは海軍の同期生だった。私のほか7人の学徒兵が同じ運命に泣いていた。

 

●辻豊記者のアピール

 

辻記者はぼろぼろ涙をこぼしながら、独房の鉄の扉ごしに、ひとりひとりと握手し、「君たちを救い出すために全力をつくすから、しばらく我慢しろ」と言い残して帰った。

 

彼は新聞、雑誌、ラジオなどで「残された人々を救え」とアピールし、NHKの平野俊助記者は戦犯者たちの声を録音して帰り、国民に届けた。また、渡辺はま子さんの哀愁をおびた「ああ、モンテンルパの夜は更けて」がヒットするなど、救出を求める世論がほうはいと高まった。

 

現地では教誨師の加賀尾秀忍師がキリノ大統領に直訴した。日本の世論に動かされた大統領はついに56人の死刑囚、52人の有期、無期囚の「恩赦」を決断した。

 

それは、対日賠償請求問題とからんで、大統領にとっては苦渋の決断とみられた。

 

私たちは1953年夏、盛大な歓迎を受けながら祖国の土を踏んだ。戦犯釈放にまつわるこれらの感動的エピソードは、昨年の夏、NHKのハイビジョン番組で克明に描き出された。

 

●囚人墓地の処刑台

 

1965年、中日新聞・東京新聞の特派員として香港に赴いた私は早速マニラに飛び、かつて私が戦い、敗れ、捕らわれの身となったマニラ周辺の足跡をたどった。

 

太平洋戦争で唯一の市街戦となったマニラ攻防戦で、わが防衛部隊は鎧袖一触、米軍に圧倒され、生き残った部隊はマニラ東方の山岳に逃げ込んだ。その敗残部隊が東海岸にたどり着き、そこに拠点を構えたとき米軍が上陸、交戦のさなか、住民がゲリラ化しているとして討伐隊が繰り出された。そのときに非武装の住民約50人を殺害するという事件が起きた(検事側証言)。

 

この事件で、47年、14人が起訴され、マニラの軍事法廷で、全員に絞首刑が宣告された。その翌日の「マニラ・タイムズ」には「マニラで戦った日本海軍の士官14人に絞首刑を宣告」と、一面トップで報じた。

 

マニラ防衛戦のとき、私の小隊が最後に陣取っていた丘陵一帯はきれいに整地され、高級住宅街となっていた。マニラから撤退するとき、私は10数人の部下を失った。そのときの苛烈な戦況が思い出された。

 

マニラの南40キロのモンテンルパ刑務所を訪れた私は、若き日、暗い5年間を過ごした独房を見せてほしいと頼んだが、囚人が暴れる心配があるからと断られ、裏の囚人墓地に向かった。そこには、もう処刑はないだろうと楽観していた51年正月、14人の仲間が突如、一夜にして処刑された13段階の処刑台がそのまま残され、かたわらには次に処刑される者を埋めるはずの10いくつの墓穴が草むしていた。

 

帰途、私は日本人受刑者を終始温かく処遇していただいた元刑務所長のブニエ博士を訪ね、「モンテンルパの仲間が東京で待っていますから」と、夫妻の訪日を要請した。その訪日は仲間のカンパで翌年実現した。

 

4日間かけずり回ってまとめた私のルポは、戦後20年の特集記事として、東京新聞の第1面全面を埋めた。

 

●サイゴン・米特派員の記者魂

 

ベトナム情勢が緊迫してきた65年暮れ、私はサイゴンに転勤した。着いてまもなく、ライシャワー駐日米大使がやってきて、日本人特派員団と深夜までオフレコの懇談をした。

 

大使は、米軍の介入はドミノ理論にのっとった必然的な行動であると、じゅんじゅんと説いた。日本人特派員の書く記事は“偏向”していると、たしなめにきたようだった。

 

私には、神出鬼没のゲリラ戦法で強大な米軍に敢然と立ち向かっている解放勢力の闘いぶりは、まことにあっぱれと感じられた。それには、比島戦線で米軍のレイテ上陸からわずか半年で50万もの日本軍が壊滅させられた苦い体験があったからだ。解放勢力には民族解放の大義があり、住民の支援があり、細々ながら「北」からの補給があった。

 

解放勢力による「テト大攻勢」があった翌年、再びサイゴンに赴任したときは、市内のあちこちに夜ごと解放勢力のロケット弾が炸裂していた。また、前年の3月に起きた「ソンミ村虐殺事件」が暴露され、定例記者会見ではその真相を追及する記者団の鋭い質問に軍スポークスマンが立ち往生し、「ノーコメント」を日に20回も連発していた。

 

「ソンミ事件」とは、「索敵撃滅戦」を展開中の米軍が、中部クアンチ省のソンミ村で、女、子どもを含む約500人の村民を殺害したというもので、まさしく“戦争犯罪”の典型といえた。

 

私は自国の軍隊による犯罪を厳しく追及する、アメリカ人特派員たちの気迫とその記者魂に強い感銘を受けた。

 

「テト大攻勢」と「ソンミ事件」は、やがて米国内の反戦ムードをあおり、最大で54万人にも達した米軍の段階的撤退を促した。

 

●北京の東200キロ・沙石峪

 

サイゴン赴任の直前の65年秋、私は香港駐在の外国人特派員のひとりとして、戦後初めて中国を訪れた。人民大会堂では、やがて“打倒”される劉少奇国家主席の悠揚迫らぬ姿をかいま見た。陳毅外相は異例の記者会見を行い、「中国人民は、はくズボンはなくとも、必ず水爆はつくる」と豪語した。

 

訪れた各都市はどこも平穏で、まもなく吹き荒れる文化大革命の嵐を予感させるものはなかった。

 

72年の日中国交回復に伴う記者交換の第一陣として私は74年、北京に赴いた。北京には与野党の大物政治家、財界、文化・芸術界など日本を代表する人物が次々と訪れ、交流拡大につとめた。そして実力者、鄧小平氏と会談した。その会談内容や鄧氏が外国の要人の歓迎宴で行う「講話」の内容を原稿にするのが特派員の主な仕事だった。

 

心に残る「鄧小平語録」のひとつ。

 

「帰られたら田中角栄先生によろしくというのが、どうしていけないのか。たとえ(ロッキード事件で)公判中であろうと、田中先生は我々の大恩人なんだ」(河野謙三参議院議長との会談で)。

 

日中双方は過去のわだかまりを乗り越え、相互認識を深め、友好と協力を拡大し、新しい日中関係を樹立しようと模索していた。

 

75年の夏、特派員の任期を終え、帰国の準備にかかっていたとき、報道局副局長の王珍さんが送別会をしてくれた。その席で彼女は「最後にどこか参観したいところはありませんか」とたずねた。私は沙石峪を日帰りで、しかも自分の車で取材したいと申し出た。彼女は心よくOKし、「せっかくだから、奥さんもどうぞ」と家内に同行を勧めた。沙石峪は北京の東200キロの河北省遵化県にあり、貧農達が荒れ山を切り開いてつくった人民公社として有名だった。長城直下の城壁に囲まれた遵化市で、私は学生時代最後の夏休みを過ごした思い出があった。

 

車は、後任の片岡繁雄君(道新)、助手の韓佐民君(のちの福岡、大阪の副総領事)、私たち夫婦を乗せ、7月7日早朝、長安街を一路東へと向かった。

 

郊外の通州あたりから自転車、荷馬車、耕耘機などで激しい渋滞となり、車は動きがとれなくなった。やっと広い道路に出て、運転手の楊君がアクセルを踏み込んだ途端、思わぬハプニングが起きた。

 

前方からワラをいっぱい積んだ馬車が近づき、その後方から自転車に乗った若い女性が、道路を横切ろうとして飛び出してきた。それを避けようとハンドルを右に切ったとき、車は並木に激突した。直径20センチほどのポプラがぽっきり折れた。その並木にぶつからなかったら、車は道路わきの深い溝に突っ込んでいただろう。

 

車は大破し、私はあごと胸をフロントにぶっつけ、後部座席の真ん中にいた家内は、頭を天井にぶっつけて、なかば無意識状態だった。幸い、ほかの3人は軽傷ですんだ。

 

壊れた車からやっと家内を助け出したところに、唐山行きの長距離バスが通りかかった。バスの運転手は何人かの乗客を降ろして私たちの席を空けてくれ、バスはノンストップで唐山市の病院へと突進した。病院では市内7つの病院から専門医が集められ診察の結果、家内を北京の病院に急送する必要があるということになった。

 

真夜中の豪雨がやむのを待って解放軍のVIP用専用機が飛んできた。早朝、首都医院(今の協和病院)に着くと、数人の脳外科専門医が待ちかまえていた。

 

診察の結果、家内の頭の傷は手術するより自然に治療するのを待った方がよいということになった。同病院の豪華な特別室で、私はひと月半、家内は3カ月間を過ごした。

 

王珍さんはあとで「奥さんの頭のけがを心配し、鄧小平さん(当時解放軍総参謀長を兼任)にお願いして軍用機を出してもらったのです」と語っていた。また、王振宇氏(のち外務省スポークスマン)は、「事故は中国で起きた不幸な事故です。入院費は中国政府が負担しますから、ゆっくり療養してください」と言ってくれた。

 

以上が、北京駐在の特派員が初めて起こした自動車事故のてんまつである。

 

●北京週報「専家」の10年

 

87年、私は中国の時事週刊誌「北京週報」の「専家」として北京に招かれた。

 

週報者にはサイゴンで一緒だった時事OBの立花丈平君(元編集局長)がおり、あとから読売OBの関憲三郎君(元北京支局長)がやってきた。ふたりとも今は亡い。

 

酒好きの3人はよく飲み、酔うほどに関君が「このままゆくと、中国は世界の大きなお荷物になるね」と嘆いていた。その中国が今や「世界の工場」となり、経済大国にのし上がった。こんな変貌を、当時だれが予測できただろうか。

 

私は週報社や中国の友人たちとの交友が楽しく、仕事にも適度の刺激があり、こわれるままに10年も北京に住みついた。その間、あの広大な大陸のほぼ全省の名所旧跡をめぐり歩いた。96年に帰国し、その翌年の国慶節に招かれて中日友好と中国の「現代化」に寄与したとして友誼賞を授与された。

 

3度目の“受難”は、4年半前に起きた。北京の“老朋友”たちに会いたくなり、北京を再訪した私は、着いた翌朝、背中に激痛を覚え、すぐ日中友好病院に運ばれた。検査の結果、心筋梗塞と分かり、日本に留学した若い医師の適切な処置で危うく一命をとりとめた。ひと月の入院中、“老朋友”たちがぞくぞく訪れ、快方に向かっている私を見て安心し、思い出話に花を咲かせた。

 

思えば、まことに波乱にみちた、多難な歳月だった。

 

(なかまた・とみさぶろう 1923年生まれ 43年上海にあった東亜同文書院大学から海軍予備学生に 56年東京新聞入社 65年から中日新聞・東京新聞特派員として香港 サイゴン 北京に 77年退社 その後外務省の対外広報誌製作に10年 「北京週報」の専家として北京に10年

 

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