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同盟マカッサル支社局~苦難に満ちた3年間~(内田 啓明)2005年8月

●占領地での邦字紙発行

 

第2次大戦中、南方の占領地域を陸軍はベトナムなどの旧フランス領インドシナ、マレー半島、ビルマ、ジャワ、スマトラ、フィリピン、北ボルネオなどを統治していた。海軍は南ボルネオ島(現在のカリマンタン島)、セレベス島(現在のスラウエシ島)、バリ島、アンボン島などを統治していた。

 

新聞社は軍の要請によって、朝日新聞がジャワ島と南ボルネオで、読売新聞はビルマとバリ島、アンボン島で、毎日新聞がフィリピンでそれぞれ現地邦字新聞を発行していた。同盟通信は主要地方新聞社と提携してマレー半島、シンガポール、スマトラ島で昭南新聞を発行していた。

 

同盟通信はシンガポールに南方総局を設置し、南方占領地域に報道組織を展開した。総局長は松本重治氏(後に共同通信専務理事)、次長は福田一氏(後に衆議院議長に)。下部組織として陸軍地域に昭南支社を、海軍地域にマカッサル支社(セレベス島)を設けた。

 

そして占領地の安定につれて各地に支局を設けた。

 

マカッサル支社配下にはアンボン(島)、メナド(セレベス島)、バンジャルマシン、バリックパパン、タラカン、ボンチャナック(以上4支局は南ボルネオ)、シンガラジャ(バリ島)の7支局があった。

 

●ガリ版刷りでニュース配達

 

各支社局は現地のニュースを無線電話で本社に送った。また本社から同報無線で送信していたローマ字通信を、現地人のオペレーターが欧文のタイプライターに打つ。それを邦字に訳して、印刷原紙のろう紙をガリ版(縦横多数の溝がある薄い鉄板)の上に置いて鉄筆で書く。ガリガリ音がするのでガリ版といった。

 

指先に力をかけるのできつい作業であった。それを回転式謄写機で印刷して新聞社、ラジオ局など報道機関や軍、行政機関、進出企業などに現地人従業員が自転車で配達する。そんな人的労働で内外のニュースを提供していた。

 

無線通信はトン・ツー式、送信機も受信機も真空管で機能する。IT時代の世代には想像もつかない原始的機器であった。

 

いずれも赤道直下から南緯10度までの熱帯地である。一年中6時に朝日が上り、6時に夕日が沈む。椰子の葉隠れに南十字星がきらめく。トッケイが鳴く。椰子酒に酔う南国の夜は静かで美しい。しかし、それを楽しめたのは束の間であった。

 

マカッサル支社は昭和17(1942)年12月に開設したが、業務に必要な無線機やガリ版、印刷機、文具類は全くない。ローマ字無線を受信する現地人オペレーターもいない。そのほとんどを物資豊かなジャワ島からかき集めた。各支局も同様で、業務開始までの苦闘は筆舌に尽くせない。

 

ようやく軌道に乗ったものの、正常な報道活動をしたのは1年前後であった。

 

●支社局相次いで壊滅

 

戦局が逆転した昭和18年半ばころから激しい空襲を受け、戦場になり、支社局は移転したり、壊滅した。

 

マカッサル支社は壊滅して閉鎖、20年7月に猪伏支社長以下7氏が駆逐艦でスラバヤ島に脱出した。4氏が残り、マカッサル支局として終戦時まで報道、ニュース配信を続けた。

 

最後まで平穏に報道活動できたのはバンジャルマシン、ポンチャナック、シンガラジャの3支局だけであった。4支局は戦場となり悲惨であった。

 

18年1月、アンボン支局開設のため3氏が乗った船が魚雷攻撃で沈没、ふたりが亡くなった。後任を含め延べ11人が活躍したようであるが、その期間は3ヶ月くらいであった。

 

19年5月に南ボルネオ北東のタラカン島に支局を開設した。ここは石油基地で海軍の燃料廠、警備隊、行政機関、商社、銀行などが多く、約5000人もの邦人がいた。同盟ニュースの需要が多かったが、20年5月に連合軍が上陸、わずか1年の短命に終わった。

 

●悲劇のバリックパパン

 

バリックパパン支局は最も悲惨であった。南ボルネオ東海岸に位置するここは、オランダ統治時代に最大の石油精製基地であった。日本が太平洋戦争を仕掛けたのは、こことスマトラ島にある石油の確保にあった。

 

占領した製油場は日本から強制的に連れて行かれた徴用工が作業していた。その数は数千人という。それを運営する海軍燃料廠、行政組織、関連資材の供給修理などの多くの商社、工場などの要員が数千人もいた。

 

この警護陣営が大きかった。海軍中将の司令官の下に海軍航空隊(ピーク時零戦100機余)、高射砲隊、陸軍部隊など総兵員は4000人もいたという。日本人の総数は1万5000人前後、重要な戦略拠点であった。

 

支局は18年5月に開局した。ガリ版印刷ニュースは、毎日3便、100カ所に配達していた。この数は全支社局の中で最も多かっただろう。

 

朝日新聞がここでボルネオ新聞を印刷していた。日本語とインドネシア語の新聞発行部数は1万5000部くらいだったと聞く。

 

●ジャングルを逃走

 

1年近くは平穏であったが、19年3月から連合軍の石油精製工場への空襲が激しくなってきた。筆者はその3月15日に着任した。支局の先輩たちに「おまえが空襲を持ってきた」と皮肉、恨みをぶつけられた。18年9月に繰り上げ卒業、10月1日に同盟通信に入社した。すぐ南方勤務発令、大危険の長い船旅を終えてようやく着いた日に大空襲の洗礼を受けた。新入社員には厳しいスタートであった。

 

20年7月1日に連合軍が激しい艦砲射撃と空襲して上陸してきた。支局長、オペレーターと筆者3人(ピーク時は7人)は無線機だけを持って着の身着のままでジャングルに逃げ込んだ。食料はなし。探しながらジャングルをさまよった。もう最後とあきらめていた8月15日に同盟の同報無線で敗戦を知った。

 

しかし、現地司令部は降伏か玉砕かで毎日、一週間も討議していた。司令部に常駐していた村川武躬支局長から変転する論議を聞いて毎日イライラ、ハラハラしていた。ようやく22日に降伏を決断して、全軍に通達していた。暗いジャングルからようやく脱出できた。

 

それから手作り家屋の捕虜生活。食料不足で餓死寸前だった21年5月末に引き揚げ船が入ってきた。まさに危機一髪であった。

 

広大なジャングルでは邦人が4000人前後も戦死、戦病死している。その遺骨はほとんどそのまま眠っている。あれから60年、探しようもない。戦後、一度慰霊に行ったが、ただ手を合わせるばかりだった。合掌。

 

夕暮れになると「ポー、ポー」とオナガザルがあちこちで鳴く。あわせるように「カナ、カナ」とヒグラシ蝉が鳴く。とたんにジャングルの遠近で爆発音が響く。手榴弾の爆発音である。万余の人々が現地召集され、ジャングルに置かれたが、食も武器も医薬品もない。マラリヤなどで気力も体力も落ちるばかり、あきらめて多くが自爆していた。明日は我が身も。悲惨な夕暮れは地獄であった。

 

●年に一度の回顧の会

 

マカッサル支社局で苦闘した社員は海軍報道班員を含めて延べ72人を数える。同盟通信には正確な記録がない。乏しい記録と生存者の記録をもとに「マカッサル支社局の記録」を14年前に筆者がまとめた。以上はこの要点である。

 

当時のメンバーでマカッサル会をつくり、毎年1回、回顧の会を開いていたが、会員は年々減るばかり。今日はわずかに4人に過ぎない。まさに遠くなりにけり。

 

(うちだ・けいめい 1922(大正11)年生まれ 43(昭和18)年同盟通信入社 共同通信経済部 解説部 整理部長 編集委員 78(昭和53)年 定年退職)

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