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記者たちの夏1975年:三木首相 靖国「私人参拝」 ぎりぎりの決断(髙橋 利行)2015年8月

その日、東京・九段の靖国神社には真夏の太陽が照り付けていた。気象庁のデータファイルによると午後3時現在32・4度を記録している。私は広い境内でうろうろしていた。なにしろ3カか月前に警視庁詰めの事件記者から政治部に配置換えになったばかりだった。総理番としては右も左も分からなかったし、夜の闇に身を潜めるようにしながら刑事の動きを追う事件記者と、大っぴらに名乗りを上げて取材する政治記者の違いにも戸惑っていた。

 

戦後、吉田茂や岸信介、池田勇人、佐藤栄作、田中角栄といった歴代首相は靖国神社を当たり前のように参拝していた。まだA級戦犯は合祀されていなかった。三木武夫が参拝する前年、自民党は靖国国家護持法案を初めて提出している。だが、成立させることはできなかった。だから現職首相の「公式参拝」を強く求めていたのである。

 

椎名裁定で首相になった自民党内左派の三木が、こういう空気の中で「終戦記念日」に参拝するか、参拝するにしても、どういう資格で参拝するかが関心を呼んだのである。

 

私は結婚する直前、靖国神社にお参りし「英霊の尊い犠牲のおかげで結婚します。幸せになります」と誓っている。なぜ、これほど大騒ぎするのかと思っていた。

 

党内に脆弱な基盤しか持たない三木は違った。下手をすれば足をすくわれる。国鉄の分割民営化、ロッキード事件をきっかけに燃え上がる「三木降ろし」の走りだったのだろう。そういう党内情勢を睨んで、ぎりぎりの決断が「私人」としての参拝だったのだろう。

 

三木が日本武道館の全国戦没者慰霊式を終えて靖国神社に向かったという情報が入った。携帯電話がなかったから警察官の無線を聞いて総理の動きを掴んでいた。待ち受けていると黒塗りの車が入ってきた。黒塗りの車ではあるがナンバーが違う。総理大臣の専用車じゃない。見過ごしかねないところだった。だが、降りてきたのは紛れもなく三木であった。

 

口をへの字に結んでいた。後で聞くと武道館で自民党総裁車に乗り換えたという。SPはついていた。2カ月前の佐藤元首相の国民葬で暴漢に殴打された後だけに三木は二重に緊張したろうし、警護も気を使ったのだろう。玉串料も「ポケットマネー」で支払っている。記帳も、一切の肩書を記さず「三木武夫」とだけしたためている。役所の秘書官を乗せず、読売新聞政治部の先輩である秘書・中村慶一郎を乗せていた。(文中敬称略)

 

(元読売新聞新聞監査委員長)

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