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戦後体験から自社連立へ 村山政権を支えた野坂浩賢氏(川上 高志)2016年12月

1996年1月5日、村山富市首相が「正月の青空を見ながら決めた」と辞任を表明した時、官房長官の野坂浩賢氏は「限界でしたかなあ」と漏らした。政権を懸命に支え、当日の朝まで説得を尽くした氏の「限界」とは、自社さ連立政権だけではなく、旧世代の区切りの言葉だったのだと思う。

 

野坂氏との付き合いは社会党担当になった92年秋からだ。村山国対委員長の下で衆院予算委員会の理事を務めていた。脳溢血の後遺症から右足を引きずりながら国会内を歩き回る。思えば「自社なれ合い」と言われた国対政治の最前線だ。裏取引もあったのだろう。とぼけながら記者の質問をかわす、ひょうひょうとした野坂氏は憎めない取材対象だった。

 

深く話をするようになったのは村山政権の発足後だった。細川政権から羽田政権まで、連立への参加から離脱へと揺れ続けた社会党の中で、村山氏を委員長に押し上げ、自民党と水面下の接触を続け、社会党内の羽田連立復帰派を退けて自社さ政権をまとめ上げた。

 

野坂氏は政局の節目に「どうしたらええですかねえ」と丁寧に尋ねてきた。若輩の意見など参考にもしていなかっただろう。こちらの反応を確かめていただけだと思う。自らは腰を低くして村山政権を支える姿勢に徹していた。

 

その野坂氏から鮮明な印象を受けたのが自民党を離党し当時、新生党代表幹事だった小沢一郎氏への拒絶感だ。「わしらとは時代が違う。一方的で話もできん」と語った。

 

その一方で、同世代の自民党議員には親近感を隠さなかった。例えば野中広務元官房長官。野坂氏から若い時代の思い出話を聞き、野中氏と付き合って思い至る。共通するのは敗戦直後の青年団活動である。野坂氏は敗戦の1年前に陸軍に入り、戦後は地元・鳥取で青年団活動に携わり、政治の道へ進む。野中氏も敗戦で京都に帰り、青年団活動からスタートしている。

 

さらに言えば竹下登元首相は島根で青年団活動に、村山氏は大分で漁村青年運動に携わっている。野坂、竹下、村山の3氏は1924年、野中氏は1年後の生まれだ。後に社会党と自民党に分かれるが、戦後の復興に若き志を抱き、地元活動に情熱を注いだ体験を共有していた。

 

社会党の中間派に属した野坂氏から理論を聞かされた記憶はない。あくまでも地域活動に根差す現実政治家だった。その根底には戦後再出発の礎となった現憲法への強い思いがあったとみる。

 

これに対して小沢氏は当時、自衛隊の海外派遣などを巡り憲法体系の変革に挑んでいた。小沢氏への拒絶感は憲法を巡る思い入れから来るものでもあったのだろう。

 

野坂氏が繰り返したのが「戦後の積み残しの課題をやらんといかん」という言葉だ。村山政権は戦後50年の首相談話や被爆者援護法制定、水俣病未認定患者救済などの実績を残した。その一方で自衛隊合憲や日米安保堅持など社会党の基本政策を転換し、党衰退への道を開いたとも言える。

 

冷戦終焉という転換期に村山政権は旧世代が放った最後の煌めきだったのではないか。そう考えれば「55年体制」を超えて手を結んだ自社両党の連立は、必然の産物であり、同時に限界を内に抱えていた。時代の変わり目の厳しい現実を、野坂氏は身を持って教えてくれた存在だった。

 

(かわかみ・たかし 共同通信社論説副委員長)

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