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真摯な怒りの人 免疫学者・能作家 多田富雄さん(羽原 清雅)2016年8月

免疫学者としてノーベル賞候補にのぼり、能作家として知られ…といった人物と、なにが接点での付き合いなの?と多田先生の長年の秘書さんにいぶかられたが、あえて言えば、「酒縁」だろうか。

 

発端は、酒田の物書きで先生が盟友とした水戸部浩子さん(1945~2010)から「とにかく面白い方なの!」と誘われて山形へ。彼女主宰の「点睛塾」なる若者たちの勉強会で、初めて多田富雄先生(1934~2010)にお会いした。

 

「浩子さん、悲しいよ。僕も間もなく行く」と弔電を送った77日後に、先生も逝った。

 

上喜元などの地酒を若者たちと酌み交わし、翌日その酒蔵に案内され…そんな出会いだった。 

 

「免疫など、まったくわかりません」と予防線を張ると、ニコリとして「そりゃ、当然でしょ」と言いたげ。以来、気は楽に。

 

帰京後、ワインに肉を好むと知らず、神田の居酒屋にお誘いした。

 

千葉大学当時の恩師が実験にあたり「文献など読むな。自分の目で見たものを信じよ」と厳しく言われた話、式江夫人(医師)との新婚当時、押し入れで実験用のマウスを飼い、子どもはたんすの引き出しに寝かせた話を、楽しそうに話した。小生は少し政治の話を。次第に打ち解けられる感が。

 

そのころから多田先生の執筆活動が盛んになる。美術や文学など多彩な関心と蘊蓄があった。

 

主たる対象は能。高校時代に小鼓を覚え、のちに能面を打ち、能作に入る。脳死と臓器移植をテーマとする新作能「無明の井」を、ごく親しい観世流・八世橋岡久馬師(1923~2004)が演じた。

 

先生にとくに親しみを感じたのもそのころだった。というのは、能の主題が、いわば社会の一断面をえぐるものだったからだ。朝鮮人強制連行を取り上げた「望恨歌」、原子力とアインシュタインの「一石仙人」、戦争3部作の「原爆忌」「長崎の聖母」「沖縄残月記」。

 

そして今年4月の七回忌初演の「生死の川―高瀬舟考」は鴎外を踏まえた安楽死の問題である。

 

政治が避けて通りたい、だがそれではすまされない課題を、先生は直視する。

 

2001年5月、脳梗塞、右半身まひ、言語・嚥下障害に襲われる。リハビリに打ち込む一方、キーボードの文字を音声に変えて語り、パソコンで原稿を書く日々だ。ある日、車いす用のエレベーターのある新居に招かれ、奥様の見事な手料理をいただいた。先生は喉元を通るよう、ワインや日本酒に薬剤を入れてドロリと凝固させて飲む。それまでして飲むか、と学んだ。かつてと変わらない明るさがあった。

 

先生はある日、真剣に憤る。06年4月、国は医療保険の対象であるリハビリを発症6カ月で打ち切るとした。障害がその間に直らなければ死ね、寝たきり老人になり衰弱死を待て、社会脱落、尊厳喪失、そして死…これが「福祉国家」か、と行動を起こした。自ら車いすで44万人の署名を厚労省に持ち込んだ。

 

書棚に今、先生から贈られた20数冊の著作が並ぶ。先生を惜しむ書や言葉も多彩だった。同感したのは、先生と対話した石牟礼道子さんの「よっぽど精神のほりが深くて、深淵で、劇的な存在」。蛇足承知で付け加えさせてもらうと、「真摯な怒りの人」だろうか。

 

(はばら・きよまさ 元朝日新聞西部本社代表)

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