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「あっちで覚えた」死刑から再審無罪の免田栄さん(高峰 武)2015年9月

熊本市内の居酒屋にいつものメンバーが集まった。会の真ん中は免田栄さん。1983(昭和58)年7月15日、わが国初の確定死刑囚から再審無罪になった人である。囲んだのは熊日のほか民放、通信社の記者、元記者などだ。

 

免田さんは今、奥さんの玉枝さんと福岡県大牟田市に住む。生まれた熊本ではなく、熊本と境を接する大牟田市という場所が、古里との微妙な距離感を示している。

 

免田さんが熊本県人吉市で起きた強盗殺人事件の容疑者として逮捕されたのは49年1月。自白中心から物証重視に変わった新刑事訴訟法が適用された重大事件第1号となった。原第一審第3回公判で明白な否認に転じたが52年に死刑が確定。6度目の再審請求で83年に熊本地裁八代支部で無罪判決を受け、確定した。

 

事件の教訓は幾つもあるが、例えば誤捜査、誤判について考えてみたい。免田さんの場合56年、第3次再審請求で、熊本地裁八代支部の西辻孝吉裁判長はアリバイを認め、再審開始決定を出した。福岡高裁は「法の安定を損なう」として取り消したのだが、あの時、再審が開始されておれば、と思う。冤罪と後に指摘される事件をよくよく見れば、捜査段階や下級審で、容疑者あるいは有罪とするには強い疑問符が付く判断がある。なぜそれが生かされなかったか。

 

最高検は86年、免田、財田川、松山の死刑囚再審無罪3事件を検討する内部報告書を作った。これを読めば、再審判決に負けず劣らず、免田さんがなぜ無罪なのかが分かる。報告書は「無期限秘」とされている。これが公表され国民の目に触れれば、事件を見る目も随分違うものになると思う。残念である。最高検幹部が「問題があるケースは私たちなりに対処しています」と語ったことがある。要は検察なりの判断で死刑を執行していない、ということのようだ。しかし、袴田巌さんのケースを見ても分かるように、拘置があまりにも長くなっているのではないか。

 

免田さんは直感の人だ。ストレートに日本社会を表現する。「日本の人権は虹のようなもの。近づくと消えてしまう」「日本人は公の犯罪に弱く、私の犯罪に厳しい」

 

無罪判決を受けてしばらくたったころ。「こんな手紙が来た」と言って見せてくれたのが、ある著名事件で獄中にあった男性からの手紙だった。検閲済みの印のある、無実を訴える長い手紙。最後は具体的な金額を挙げて資金援助を求めていた。「返事はどうしましたか」と聞くと、「闘いはあくまで自分1人でやるもんですよ、と書きました」とさらりと言った。芯には一本、厳しいものを持っている。

 

1925(大正14)年生まれの免田さんは今年11月4日、90歳。卒寿だ。しかし、人生で最も豊かであるべき青、壮年期は獄中だった。実際生まれたのは11月3日。明治天皇の天長節で、畏れ多いと1日ずらしての届けとなったという。そんな時代から生きてきたのが免田さんである。

 

居酒屋の後はカラオケになった。免田さんの曲を入れていた同僚が「あれ」と声を上げた。「みんな別れの歌だなあ」。「哀愁列車」「赤いランプの終列車」「達者でナ」などだ。店を出てから聞いてみた。「どこで覚えましたか」。返事は短かった。「あっち」

 

獄にあって、どんな思いで別れの歌を覚えたのかと思い、しばらく言葉が出なかった。

 

(たかみね・たけし 熊本日日新聞論説主幹)

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