ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


リレーエッセー「私が会ったあの人」 の記事一覧に戻る

「曲がったことが大嫌い」を地で生きた米原万里さん(金平 茂紀)2015年8月

テレビ報道を38年も続けてきて、人と会うのを仕事としてきたのだが、僕はどちらかといえば人と会うのが苦手な人間だった。けれども、否応なしに関わらざるを得ない人と巡り会い、そこから絶大な影響を被るという経験こそが人生の妙味だろう。

 

いきなり爺くさい書き出しになったが、そんな人物の一人が、米原万里さんだ。米原さんは2006年5月に56歳の若さで他界された。その年の七夕の日に、当紙の発行元、日本記者クラブの10階ホールで「米原万里さんを送る集い」が開催され、多くの人が故人を偲んだ。

 

米原さんと最初に会ったのは、僕がモスクワ支局に赴任する1年半ほど前の1989年頃だった。当時の上司だったTBS報道局外信部長の黒田宏さん(96年に他界)から「お前、ロシア語を勉強するんだったらこの人に会ってみろ」と紹介されたのだ。米原さんは当時、TBSの宇宙プロジェクトの通訳兼コーディネーターとして、日本人初の宇宙飛行士・秋山豊寛さんをソ連のバイコヌール基地から飛ばすという計画に中心的に関わっていた。

 

とにかく万里さんは会った当時から輝いていた。小気味いいほど、ずけずけとものを言う。僕は彼女から紹介された代々木駅前の、小さなロシア語教室で文字通りゼロからロシア語を学んだ。36歳から新しい外国語を学ぶというのは大変だったが、とにかく万里さんのまわりにいる人たちが個性派揃いで、楽しいのである。

 

その後、僕はモスクワに赴任したのだが、5カ月目にいきなりゴルバチョフが軟禁される保守派クーデター事件が起きた。ソ連崩壊の直接の引き金になった大事件だったが、万里さんは、僕の前任者の小池敏夫さんらと共に、すぐにモスクワに駆けつけてきてくれ、以降、不眠不休でクーデター事件の推移を時々刻々と報じた。ロシア語の同時通訳者の第一人者だった万里さんは、ロシア側からも絶大な信頼を得ていて、何とその夏に、僕らモスクワ支局は、エリツィン、ゴルバチョフと事件の主人公たちの単独インタビューを次々にものすることになった。もちろん通訳は万里さんが務めたが、交渉を行ったのも万里さんである。

 

今だから明かすのだが、ある日、万里さんがTBSのモスクワ支局で冗談とも本気ともつかない表情で「私を支局で雇いなさい」と言ったことがあった。どぎまぎした。その後、万里さんは、そんなことは二度と口にしなかったが。

 

万里さんはその後、作家として作品をどんどん発表し、同時通訳で仕事を共にする機会は減ったが、さまざまな折に本音で話をした。彼女は曲がったことが大嫌いで、そのモットーを自分の生活でも実践していたようなところがあった。

 

僕がワシントン支局に赴任していた時、イラク戦争に絡み、日本人人質事件が発生した。その時、日本国内では人質やその家族に対していわゆる「自己責任」論を盾に、バッシングの嵐が吹き荒れた。ワシントンと鎌倉で長い時間、万里さんと僕は電話で話をした。その時の内容が拙著『テレビニュースは終わらない』(集英社新書)に収録されている。

 

あれから10年以上の歳月が流れた。「イスラム国」による邦人人質殺害事件が起きた。万里さんが生きていたら、怒りのあまり憤死していただろう。メディアの報道ぶりに、政府の対応に。

 

(かねひら・しげのり TBS「報道特集」キャスター)

ページのTOPへ