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禁じられた恋(黒岩 徹)2014年11月

旧ユーゴスラビアに属していたボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、コソボなど6カ国を一人でレンタカーを駆って2000キロ回ってきた。旧ユーゴ内戦終了後20年を経たにもかかわらず、民族と宗教の対立の痕跡が生々しく残っていたことに衝撃を受けた――。


ボスニア・ヘルツェゴビナの都市モスタールでのことである。この町は16世紀に石でつくられた古い橋「スタリ・モスト」で名高く、この橋と周辺の古い街並みが世界遺産に登録された。だが92年にボスニア・ヘルツェゴビナの独立宣言でセルビア軍が侵入、内戦が始まった。しかも一時ボスニア側についたクロアチアが、領土拡大を目指してボスニアを攻撃、モスタールでは「昨日まで隣人だったクロアチア人が、われわれボスニア人を襲ってきた」(住民の話)。隣人同士が殺し合う内戦が終わり長期間たっても人々は、民族対立の憎しみを抱き続けていた。


モスタールの本屋に入って、若い店主から内戦の思い出を聞いた。彼は内戦開始時に5歳だったというから現在27歳。話しこんでいるうちに「内戦のビデオがある」と見せてくれた。BBCのカメラマンが命をかけて撮影したドキュメンタリーだった。


空気を割るような鋭い摩擦音がして砲弾が建物にあたる。ズシーンという衝撃音とともにコンクリートが崩れ落ちる。BBCのカメラマンたちが、銃弾の音の中、町の象徴であった古橋「スタリ・モスト」を頭を下げながら走って行く。次は、この橋がクロアチア軍の砲撃と地雷で一気に崩れ、川に落ちていくシーンである。カメラは、がれきに埋まる街の景色を映し出す。


27歳の男は、5歳のころ、砲撃音や銃声を聞くたびに防空壕に飛び込んだ、という経験を細かに話してくれた。最後の「あの激しく弾の飛び交う中で、どうして自分が生きのびることができたのか、いまだに分からない」とつぶやいた。その瞬間、私の目から突如涙が溢れ出た。69年前、私が5歳になろうとする前、米軍による東京大空襲に遭った記憶が急に目に浮かんだのだ。彼の「5歳」という言葉に自分の思い出が噴出し落涙してしまった。


1945年3月、自宅に庭に掘られた防空壕から飛び出した。大人の「ここにいたら危ない」との大声で、兄と私といとこ二人は、離れ離れにならないよう互いに綱で体を繋ぎ、逃げ出した。火の粉を避けるために叔母がアルミの洗面器をかぶせてくれた。だが周囲では家が焼け、音を立てて崩れて行く。風に乗って真っ赤に焼けたトタン板が飛んで来る。逃げる途中、米戦闘機の機銃掃射に襲われた。道の向こうから弾丸がビシビシ音を立てながら跳ね上がり、近づいて、後ろに離れていった。兄は今でも戦闘機に乗って撃ちまくる米空軍兵のマスク姿を覚えている、という。逃げまどう子供、女を撃ち殺そうという遊びのような残酷さである。


疲れ果てて新宿駅南口近くの汚いどぶに飛びこんだ。親切な人が布団を頭に置いてくれた。汚い臭い泥水を布団と頭にかけながら一晩明かした。翌朝、どぶから這い上がった見た光景は昨日と一変していた。ほとんどの建物が焼失したか、崩れ落ちていて、いやに遠くが見渡せた。私もまたモスタールの青年と同様、「あの空襲の中で、どうして自分が生きのびたか分からない」と空襲を思い出すたびに感じていた。青年のつぶやきが、昔の記憶を一気に蘇らせ、思わず涙が出てしまったのだ。


青年は、自分の話に私が感動して涙を流した、と思ったらしい。「これを持って行って」とモスタールの街の写真集をお土産にくれた。勘違いも悪くはない。


同じ書店で出会った、店主の友人だという20代の若者(イスラム教徒)の話は衝撃的だった。「美しい娘に出会っても」、ボスニア人(イスラムかクロアチア人(カトリック)か、あるいはセルビア人(セルビア正教)が分かってから付き合う。もしボスニア人でない女性と恋をしたら、悲劇が必ず待っているからだ」と彼は言った。民族の異なる若い二人が愛し合って結婚しようとすれば、その背後にいる親族が、他民族との結婚を許すはずがない、との判断がある。シェークスピアの「ロミオとジュリエット」の世界だった。


若者の苦渋の表情を見たとき、1970年代に北アイルランドで取材中出会ったカトリックの青年を思い出した。同じ20歳になったばかりの青年は「美しい女性に街やパーティで出会っても、カトリックかどうか確かめる。プロテスタントを好きになったら、悲劇が待っている」。もう一人の青年は、私を日本人ジャーナリストと知って思い詰めた表情で声をひそめた。「だれにも言うなよ。プロテスタントの女性を好きになってしまった。ここで結婚しようとすれば、両方の親族が大反対する。われわれはここでは生きていけない。もうすぐ二人でロンドンに逃げることを決めた」。愛し合った若い二人は、愛を成就するために故郷と親兄弟を捨てる決意をした。民族間の対立が、若者の純粋な心を痛く傷つけたのだ。


その後北アイルランドでは和解が成立した。だがボスニア・ヘルツェゴビナでは、憎しみが深く人々の心に巣くっている。


これまた内戦で大きなニュースとなったコソボでは、内戦終結後15年しかたっていないこともあって、建物にも人の心にも戦いの傷が残っていた。


コソボ第二の都市プリズレンでリェヴィシャ教会を見た。12世紀にセルビア正教会(キリスト教)として建てられたが、オスマン・トルコ帝国下でモスク(イスラム教)に変えられ、フレスコ画が塗りつぶされた。オスマン帝国の崩壊で20世紀初めセルビア正教の聖堂に戻り、フレスコ画も日の目を見た。だがコソボ独立後、反セルビア人暴動の際、イスラム教徒によって襲われフレスコ画は傷つけられた。2006年世界遺産に指定されたが、いまなお修復作業がはかどっていない。フレスコ画は、素晴らしいのだが、内部は薄暗く、照明さえない。「これが世界遺産なのか」と驚かされるほど汚れたままだ。教会はセルビア正教とイスラム教との間を行ったり来たり、フレスコ画のキリストが泣いているようだった。


コソボ紛争とは1996年から1999年まで、セルビア人勢力とコソボ独立を求めたアルバニア系コソボ解放軍との血みどろの戦いである。セルビア側がコソボ地域で“民族浄化”作戦を進めてアルバニア系住民を虐殺、これに対抗してNATO(北大西洋条約機構)がユーゴスラビアを空爆し、ようやく停戦となり紛争が終結した。だから私がこれまでいだいていた印象は、コソボが被害者、セルビアが加害者だった。


ところがコソボの首都プリシュティナにある世界遺産のセルビア正教のグラチャニツァ修道院を訪れたとき、その印象は逆転した。


修道院の尼僧と話しこんでいたら、彼女は奥から写真集を持ってきて説明しようとし始めたら、突如泣きだした。「見てください。彼らは、私たちの教会(セルビア正教の教会)をこれだけ破壊したのです。このページにも次のページにも彼らが壊した跡が映されているでしょ」。彼らとはアルバニア系コソボ人(イスラム)、独立した現在のコソボ共和国を支配する人々のことである。


私は、コソボ人こそ、今回の紛争の被害者であるとばかり思っていたが、彼らはセルビア正教会の教会を破壊した加害者でもあったのだ。この点を、コソボ独立の戦いに参加したというホテル支配人に質したら、やや困った顔をしながら「戦争は狂気を生むものだ」とだけ言って黙ってしまった。確かに戦争は人々を狂わせ残酷さを生む。だからいかなる理由があれ、戦いをしてはいけないのだ。


1989年、ベルリンの壁が崩れ落ちた後、国際政治学者、坂本義和氏は、「これからの世界は、民族と宗教の時代になるだろう」と予言した。社会主義、自由主義というイデオロギーの対立が、壁の崩壊で消えたとき、新しい対立軸として「民族と宗教」が浮上してくる、という鋭い指摘である。その予言は、悲しくも的中してしまった。


(2014年11月記 毎日新聞客員編集委員)

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